一番強い手が最善手というわけではない。曖昧さを求めるということ【将棋と教育】

一番強い手が最善手というわけではない。曖昧さを求めるということ【将棋と教育】

ライター: 安次嶺隆幸  更新: 2017年09月14日

以前【ファジー】という言葉が流行ったことがあります。PC社会、AIなどがかつて苦手にしていた分野ということで注目された言葉、言い換えると「曖昧」でしょうか。「曖昧」というと、「はっきりしない」「あやふや」とマイナス面ばかりが強調されているように思います。しかし、曖昧なことにもプラス面は多くあり、むしろ将棋においては「曖昧」であることが最善ということもあるのです。

今回のコラムでは、曖昧さとそれが内包する柔軟さ、豊かさについてお伝えしていきます。

「曖昧さ」は、羽生二冠の求める指し手の境地

これまでのコラムの中で、「将棋は他力」や、「端歩の一手」や「保険をかける指し方」などをお伝えしてきました。このような指し方は、結局のところ、曖昧さを残して相手に手をゆだねるということを意味しています。自分だけ得をしようという思想で指すのではなく、「さあ、どうぞ」という精神で相手に手番をゆだねていく。羽生二冠は、「そこを目指しています」とおっしゃっています。でも、「相手にゆだねる」ことはとても勇気がいるものです。では、どうやってそこを目指したらいいのでしょうか。

野球では、バットを思い切り振ればホームランを打てると素人は考えがちです。しかし、バットに当たればいいのではなく、ジャストミートしないと打球は思ったように飛びません。将棋も、持っている力をすべて出し切ればいいのではなく、適切なタイミングで適切な手を指して、ジャストミートさせる必要があるのです。一番強い手が最善手というわけではないのです。

最善手というのは、自分ひとりが「えいやー!」と力んで作れるものではなく、相手とのやり取りの中で作られていくものです。だから、「はい、どうぞ」と相手に手番を渡すわけです。

一見、手番を渡すのは相手にチャンスを与え、自分に不利になるように感じます。しかし、相手にとってみたら、難しい問題の答えを導き出すことを託されることにもなるのです。直接的な、「これでどうだ!」という手なら、その手の狙いを封じればいいだけなので、対応は簡単です。ところが、「こうとも動けるし、こうとも出来る手です。次にあなたはどうしますか?」といくつかの含みを持たせた手には、どう対応するべきなのか、大いに頭を悩まされることになります。

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(第54期王位戦 第2局より)

はっきりさせないことが、無限のバリエーションを生み出す

いくつもの含みを持たせた手は、一点突破を狙う手ではないだけに一見地味に見えます。しかし、曖昧な手は選択の幅が広いのです。要するに、「私は盤面全部に対応していますよ」という手とも言えるわけです。

そう言って「さあ、どうぞ」とされたら、手を渡されたほうは、あちらでもこちらでも自分の読みがつぶされているのが分かりますから、「そうか、もう一度しっかり考え直さねば」となります。そして考えた結果、「私、こんなふうに考え直しました。これだったら、どうですか?」とこれまた曖昧な手を指して、相手に戻していくのです。

プロ棋士は絶えずこういうやり取りをしてお互いの手を読み合い、相手に全方位で対応しているのです。いやはや、凄い世界です。将棋というのは知れば知るほど、常にすさまじい精神力を求められる世界なのだと痛感させられます。

曖昧というと、「はっきりしない」「あやふや」と評され、日本人の悪しき精神構造だと非難されることもあります。

しかし、本当にそうでしょうか。曖昧さを排除して白か黒か二つに一つ、はっきりさせたら、確かにわかりやすいでしょう。けれども、白でもない黒でもないグレーには、黒に近いグレーもあるし、白に近いグレーもあります。白と黒の間には、それこそ無限のバリエーションのグレーがあります。

そのグレーを排除してしまうのは、豊かさをも排除してしまうことになってしまいます。すべてを呑み込む曖昧さというのは、実は「本当はしなやかな柔軟性」を意味しているのではないでしょうか。

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盤面に向き合い、人生の一部の時間を将棋に費やす

少なくとも将棋においては、曖昧さというのは融通無碍の対応力の高さを意味しています。「さあ、どうぞ」と、二人のやり取りの中で最善手を模索していく将棋を見ていると、曖昧というのは、あやふやな「いい加減」ではなく、絶妙な「良い加減」なのだと気づかされます。

デジタル世代の子供たちにとって、白黒つかない、はっきりしない曖昧な世界、言ってみればアナログの世界は面倒に感じるかもしれません。そもそも、将棋盤の前にきちんと座っているという行為だけでも、大変な我慢を強いられることでしょう。

盤面に向き合うときには、その時間は将棋しかできません。ピアノを弾いているときは、同時に料理はできないし、本を読んでいるときは、同時にゲームはできません。ひとつのことに、人生の時間をささげていることになるのです。

人生の一部の時間を将棋に捧げてみたら、きっといろいろなことを経験することでしょう。その体験を積み重ねて、いつか「良い」加減で将棋を指せるようになったとき、曖昧ということの本当の意味や幅の広さも、分かってもらえるのではないかと思うのです。

子供たちは将棋から何を学ぶのか

安次嶺隆幸

ライター安次嶺隆幸

東京福祉大学教育学部教育学科専任講師(元私立暁星小学校教諭)。公益社団法人日本将棋連盟学校教育アドバイザー。 2015年からJT将棋日本シリーズでの特別講演を全国で行う。中学1年生のとき、第1回中学生名人戦出場。その後、剣持松二九段の門下生として弟子入り。高校、大学と奨励会を3度受験。アマ五段位。 主な著書に「子どもが激変する 将棋メソッド」(明治図書)「将棋をやってる子供はなぜ「伸びしろ」が大きいのか? 」(講談社)「将棋に学ぶ」(東洋館出版)など。

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