ライター安次嶺隆幸
子供たちは将棋から何を学ぶのか【将棋と教育】
ライター: 安次嶺隆幸 更新: 2017年12月18日
IT化やAIの台頭などを筆頭に、現代社会は速さと効率を追い求め続けてきました。しかしその中で、昔はあったのに、今は忘れてしまったもの。たしかに誰もが持っていたはずなのに、どこかに置き忘れてしまった大切なものがあるのです。
日本人の心の中で起こっている変化
「ウチの子は落ち着きがなくて、いつもイライラしているのです。学校ではいかがでしょうか。」最近、このような相談を多く受けます。学校での子供たちを見ていると、確かに以前と変わってきたと感じる瞬間があります。
32年間、小学校という教育現場で子供たちとともに歩んできましたが、何かが大きく変容しているように思います。いえ、子供たちだけではありません。私たち大人も含めて、日本人が何か大切なものを忘れてしまっているように思えてなりません。
今、日本人の心の中で何が起こっているのでしょうか。私たちは何を置き去りにしてきてしまったのでしょうか。そうしたことを考える中で私が行きついたのが、将棋の教育的意義でした。
それまで私は長いこと、キレる子、我慢できない子が学校現場で増えているのを感じながらも、教師として何をしたらいいのか、皆目見当がつかない日々を送っていました。しかし、私たちは便利な生活に慣れてしまい、もしかすると「頑張る気持ち」「相手のことを受け入れるゆとり」「待つこと」「我慢すること」といった本来日本人が持っていたものを失ってしまったのではないかと気づきました。そしてそれが、これまで自分が学んできた「将棋」を再認識する機会になったのです。
将棋を指すことを通じて得られる数々の体験
将棋は、相手がいなくては対局ができません。目の前にいる相手と一手ずつ交互に指し手を進めて、二人で一歩ずつ長い道のりを歩いていきます。そのため、相手のことを受け入れ、相手の手番も待つということを、当たり前のこととしてやっていきます。
また、将棋をすることで、自分と向き合ってじっくりと考えることや、考えを積み重ねていく地道な習慣も身につきます。指し手のすべての決断を自分の責任で行うという厳しさ、相手の手の意味を考え、意図を汲むといったことも、自然とやっていきます。将棋を指すことを通じて、自他ともに精神的に成長できることを、実体験として覚えていくのです。
このような、「がんばる気持ち」「根気」「我慢」「相手の気持ちを察すること」――こうした以前の日本人が普通に持っていたものは、そのまま将棋の精神に受け継がれていたのです。
そしてまた将棋は、礼に始まり、礼に終わるゲームです。そこにはまず、「お願いします」の礼があり、次は自分で自分に負けを宣言する「負けました」の礼、そして、一緒に駒を一つひとつ数えながらしまい、最後にお互いに対して言う「ありがとうございました」の礼があります。
何よりもこの3つの礼こそ、学校教育の中で今の子供が、そしてもちろん私自身や大人社会も見失いかけている大切なことなのではないか、と思い至ったのです。
第30期竜王戦 第4局より
日本人ならではの伝統文化
2008年と2009年に、ハワイのホノルルで「日本人のわすれもの・イン・ハワイ~アロハ将棋祭り」と名づけられた将棋のイベントが行われました。第1回大会は島朗九段が指導にあたり、第2回は佐藤康光九段も島朗九段と同行しての開催でした。
島九段に伺った話では、そのときにハワイ在住の子供たちに将棋の心得を説いて、投了の合図と意味を示し、「負けたら自分から『負けました』としっかりと言いましょう」と教えたら、「No!」と言って激しく拒まれたそうです。現地の小学校低学年の子供は泣き出して、その場から逃げ出そうとしたとか。
その子供にとっては、自分の負けを認めることは自分のすべてを否定されるように感じてしまったのでしょう。「負けました」と負けを宣言する言葉の背景には、日本人が長年抱いてきた独特の価値観があります。その美学は、文化の違う社会に育った子供には理解されなかったということのようです。
負けから学び、そしてもう一度はい上がる勇気をたしかに日本人は持っていたはずです。負けから学ぶ姿勢だけではありません。他にも謙虚さや思いやり、忍耐など、日本人が持っていたものは確かにあったはずです。
そうした日本人が忘れかけている大切なものが、将棋という伝統文化のすばらしさをちゃんと伝えたい、そんな思いでこのコラムをまとめました。
日本人のわすれものを取り戻すために
以前はたしかに持っていたはずなのに、どこかに置き忘れてしまった大切なもの。「日本人のわすれもの」を、子供たちが手に取れるようにするためにも、私たち大人がしっかりと見つめなおすときが来ているのではないでしょうか。