ライター安次嶺隆幸
じっくり何かに向き合うということの大切さ【将棋と教育】
ライター: 安次嶺隆幸 更新: 2017年10月29日
2010年2月、東京・有楽町マリオンで行われた第3回「朝日杯将棋オープン戦」準決勝・決勝戦の日のことです。トーナメント方式の選手権ベスト4に残っていたのは羽生善治名人のほか、久保利明棋王、谷川浩司九段と佐藤和俊五段(肩書は当時)。ちょっとご挨拶しようと軽い気持ちで羽生名人の控え室を訪ねました。そして扉を開けた瞬間に・・・
対局前の羽生名人の控室で見たもの
扉の向こうにあったのは、羽生名人のとてつもなく怖い眼でした。対局中の真剣な眼差しともちがう。まして、普段お付き合いさせていただいているときの、子供のような眼とも違う。それまで一度も見たことのない眼でした。
すぐに羽生名人は私に気づき、表情をゆるめて会釈をしてくれましたが、私は自分自身の軽率な行動に生きた心地がしませんでした。
怖いといっても、控え室に第三者が入ってきたことを咎めるように睨まれたわけではありません。むしろ私に気づかないというか、私と眼が合っているけれど、私のことは認識していないといった感じ。網膜に映っているはずの私を通り越して、もっと遠くを見つめているような眼と言ったら、おわかりいただけるでしょうか。
とにかく「ここにいてはいけない」「私が踏み込んではいけない」「この空気を乱してはいけない」、そう思わせる眼だったのです。
人が本当に集中しているとき、自分の内面と深いところで対話しているときには、こういう眼になるのでしょう。
羽生名人のみならずプロ棋士の皆さんの集中力には、すさまじいものがあります。「いいかげんな気持ちで将棋盤に向かってはいけない」という掟があるかのような、厳しいまでの集中ぶりです。もっとも実際には、そんな掟は存在しません。なぜなら、プロ棋士にとって、それは自明のこと、当たり前の姿勢だからです。
第65期王座戦 第2局より
子供たちの「考える機会」を奪いかねない環境の変化
忙しい現代社会、それほどまでに集中することが、はたして現代の私たちの生活の中に存在しているでしょうか。
最近は「すぐにキレる」「我慢できない」「じっと考えていられない」子供たちや大人たちが増えています。他人が垣間見て怖いと思うほど集中して何かを考えたり、自分の内面に向き合ったり、事に当たったりすることはほとんどなくなってしまっているように思います。
子供たちを取り巻く環境は今、めまぐるしい勢いで変化しています。そんな社会の変化の波に対して、子供たちはいともたやすく順応しています。パソコンや携帯電話といった機器を操り、速さを競い合って反射ゲームを展開しているように見えます。利便性の最前線にいて、当たり前のように使いこなしているのです。
しかしその反面、じっくり集中して考える機会が失われてしまっているのではないかと思うのです。情報化社会となった現代、求められるのは「速さ」や「効率」です。教育においても、じっくりとものを考えさせるということがなかなか出来ていません。「何時間かかってもいいから、このひとつの問題をじっくりやってみなさい」と言われた経験は、おそらく今の子供たちはほとんどないことでしょう。
将棋の「本当の目的」とは?
そんな時代の風潮に逆らうように、将棋は集中を強いるゲームです。人と人とが対峙し、盤面を挟んで思考の対話を重ねていきます。上手くいかないから、勝てそうにないからと、リセットボタンを押すことなどできません。誰にも頼らず自分ひとりの力で考え抜いて駒を進め、その結果はすべて自分で引き受けなければなりません。どんなに悔しい結果になっても、自分の責任なのです。
つまり、「すぐにキレる」「我慢できない」「じっと考えていられない」といった態度とは正反対でいなければならず、これぞまさしく将棋の教育的意義だと私が考えているポイントです。
将棋の本当の目的は相手に勝つことなのではなく、自分の心に克つことなのです。控え室で私が遭遇した羽生名人の怖い眼は、そうした自分の心に克つということの厳しさを教えてくれる眼でした。
ちなみに棋戦の結果ですが、羽生名人はどこからそんな手をひねり出したのかと聞きたくなるようなすごい手を指して決勝戦に進み、その戦いも見事に制して優勝を果たしました。精神統一を邪魔してしまった私がホッとしたのは、もちろん言うまでもありません。