ライター安次嶺隆幸
将棋を心理学的に考察。「良い将棋を指して勝ったのでないと満足しない」とはどういうこと?
ライター: 安次嶺隆幸 更新: 2017年10月12日
将棋について、日本で初めて心理学的に考察を試みた人がいます。波多野完治氏です。
現在では、将棋の研究が各分野の学者によって行われるようになりました。例えば、コンピュータ将棋が飛躍的に発展していったことは皆さんもご存知の通りです。
波多野氏の考察の中でも、将棋の精神性についての話がたいへん興味を引きますので、今回はそれをご紹介していきます。
プロ棋士は、勝負師であり芸術家
波多野氏は、将棋をゲームとしてとらえています。ゲームというのは成文的規約(ルール)の他に不文律(ルールに明文化されない、暗黙の了解)を持っているとして、いわゆるフェア精神、自己心理抑制がなければならないとしています。また、このようにも述べています。 「プロ棋士は無数のゲームによって訓練され、ゲームに対してフェアな人格が出来上がっている。その結果、彼らは、良い将棋を指して勝ったのでないと満足しない。相手も良い将棋を指し、自分がそれ以上のよい将棋を指して勝った場合に初めて彼らは満足する。」
プロ棋士が「良い棋譜を残す」ことを目的に将棋を指すことが、まさにこの通りです。これは、例えば画家がキャンバスにスケッチするかのように、一種の芸術性が存在します。しかし、一つだけ異なる点は、画家は一人作業ですが、将棋は相異なった二人の力量が同時に発現して名局が誕生します。いわば棋士は勝負師と芸術家の二面性を持っていると言えるでしょう。
将棋と、人間の精神的エネルギー
また、将棋という競技面における人間の精神状態についても考察しており、こちらもご紹介していきます。波多野氏は、将棋を刺激として捉えた場合、その人間の精神的エネルギーの調整が重要であると言っています。
「人間の精神が本当に働き出すためには刺激が必要。刺激を持たない、ぼんやりした状態では、人間の心は活動しない。対局は、この刺激を人為的に作り出す条件を満たしている。しかし、将棋は精神的エネルギー流出量のむやみな増大によっては勝てるものではなく、その統制ある流出によってはじめて勝つことができる。それは将棋が「知能」のゲームだからだ」
羽生二冠は、「将棋には闘争心は必要ない」ということをおっしゃっていました。勝負である以上、真剣に対局に向かうのは当然でもある一方で、エネルギー量のむやみな増大、つまり、不必要に闘争心を高めることは、必要ないということとつながってきます。 その統制、バランスが必要ということも、感覚的なものがより科学的な根拠にも裏付けられていたのです。
(第84期棋聖戦 第3局より)
勝負の中での自制心と忍耐力
精神エネルギー量が増大することは、ただ、自然の感情、欲求に従ってそれを強めていけばいいのですから容易です。しかし、人間は成長するにつけて、様々な社会的道徳やルールがあることを知り、自分中心の欲求を抑えなければならないことを学びます。いわゆる、自制心、忍耐力というものです。
将棋を指すことは、相手との指し手の中で行くべきか、とどまるべきか、押すべきか、引くべきか、様々な自分の中の葛藤と戦うことでもあります。それは、強い自制心や忍耐力が身についていく場になりうるのです。
このような内面の葛藤をいかに向き合い、それを超えていくか、様々なストレスに向き合う精神の安定が求められている現代。最近の子ども達での将棋ブームの背景には、大人側からの将棋の再認識もその遠因になっているのではないでしょうか。
プロ棋士の対局を観戦させていただく機会が何度かありますが、特に感じたことは、この自制心や忍耐力がとても必要であるということです。将棋は、相手との戦いのようで、実は自分との戦いでもあるのです。思い切った手を指して楽になりたいという思いがある一方で、一歩引くという判断を出来るかどうか。つらい中で耐え抜く手を選ぶことができるかどうか。
強い人ほど、自制心や忍耐力が高いものなのです。
全体を見通しながら遠回りする行為
将棋では急がば回れという体験もします。これはエネルギーが流出しないように統制し、辛抱して、全体を見渡します。自制の力、忍耐力、応用力、推理力などを複合的に使いながら、遠回りのようだけれど確実な道を歩むことです。将棋を指しつつも、全体を見通しながら遠回りのようで着実な道を進む訓練にもなっているのです。
心理学的な視点からの考察も、将棋を通じた精神性の高まりをより確信に近づけるものでした。子供たちには、勝負そのものと内面で起こる葛藤、自分との戦いを通じながら、成長していってほしいと願っています。