女流棋士発足から45年目、女流棋士会会長・山田久美女流四段が振り返る平成の棋界

女流棋士発足から45年目、女流棋士会会長・山田久美女流四段が振り返る平成の棋界

ライター: 山田久美  更新: 2019年04月27日

昭和64年1月7日14時36分。小渕恵三官房長官が『平成』と書かれた文字を掲げ粛々と「新しい元号は『へいせい』であります」と発表した。

天皇陛下のご容態が芳しくないということで、日本国内は昭和63年の年末から何となく自粛気味の傾向にあったが、クリスマスには街にサンタクロースが居たし、お正月には晴れ着姿で新春番組に出演するアイドルたちが居た。そして1月6日、私の誕生日も例年通り訪れ、22歳を祝ったのだった。

しかしその翌日、小渕恵三氏を有名にしたあの「発表」から、街中の光が消えた。コンビニさえも休業し、閑散とした冬の1日となった。

時代が変わる瞬間はこういうものなのか?長い昭和の時代が幕を閉じ、1月8日新しい平成の時代が静かに訪れた。

平成の将棋界は羽生善治竜王誕生で始まるのだが、女流棋界はというと、女流王将8連覇中の林葉直子さんが全盛期であり、中井広恵さん、清水市代さんがタイトル戦の常連だった。

その中で二歩も三歩も後ろにいたのが私である。タイトルどころか挑戦者にさえなれずにデビューから7年が過ぎていたが、平成元年はようやく私にも運が向いてきた年でもあった。

当時は女流名人位戦(現・岡田美術館杯女流名人戦)、女流王将戦(現・霧島酒造杯女流王将戦)、レディースオープントーナメント(現・マイナビ女子オープン)、そして新棋戦として開幕したばかりの女流王位戦の4棋戦を23人の女流棋士が戦っていたが、第12期女流王将戦でチャンスが来たのだ。

女流王将A級7人リーグを4勝1敗で迎えた最終戦。勝てばそのまま挑戦者、負けてもプレーオフという状況だった。

最終戦は蛸島彰子女流五段(当時)で、言うまでもなく女流棋士第一号の女流界のパイオニアだ。大先輩相手だが緊張は無く、ただ、それまで何度も負かされていたので不安の方が大きかった。

中飛車を得意とする蛸島女流五段に居飛車の私が主導権を得たように思えたが、上手く粘られて入玉を目指されてしまった。

ダメかと思うと同時に、ふと、負けてもプレーオフがある、の思いがよぎる。普通はそういうことを考えると負けとしたものだが、よし!負けるなら自分の指したい手を指すんだ、と、ひらき直ることにした。

両者時間が無い中で、入玉を目指す、それを阻止する、の攻防となり、最後はひらき直りが功を奏した。

終局を迎え、感想戦が始まるその時、コンタクトを入れた眼に小さなゴミが入った。コンタクト経験者ならご存知だと思うが痛くて眼を開けていられない。涙が出てくる。慌てて洗面所へ駆け込んだ。後日、『初めて挑戦権を得た山田久美は感極まって目が潤んでいた』と書かれたが、まあ、そういうことにしておくか、と照れくさかったのを憶えている。

初挑戦の女流王将戦はすんなりと林葉さんに9連覇を許し、でも、自分なりに一生懸命戦った結果だし、また次があるよ。とサバサバしていたのだが、次、が来るのは遠い遠い先になるとも知れず、呑気なものだった。

その頃の私の立ち位置は普及やイベント、テレビ出演といったものが多かった。人それぞれに役割があり、タイトルを獲るのはアナタ、私はこっち、と、楽な道を選んでしまう弱さがあったのだ。もちろん普及はとても大事なことだし、将棋ファンあってこその職業なのだから一度も疎かにしたことは無く、楽だなどと思ったこともない。ただ、勝つことに貪欲になれない、自らを精神的に追い込むことができない弱さが私にはあった。

時の過ぎ行くままに、平成26年秋。再びチャンスが訪れた。25年ぶりに倉敷藤花戦で大きな舞台に立てるチャンスがきたのだ。

トーナメントベスト4まで残った時、恥ずかしながら初めて「狙い」にいった。あと2局は必ず勝ちたい、挑戦者になりたい、と。

ただ、今のままでは駄目だ。色々な方に声をかけて研究会、VSをお願いした。多忙なのに申し訳ないと、気後れして頼めなかった棋士にも思い切って電話をかけた。しかし、そんな思いは杞憂に終わり、皆、快く引き受け、協力してくれたのだ。

年齢も40代後半、短期間でどれほど棋力が上がるのか?いや、そうではない。少しでも昔の勢いを取り戻せるか?だった。

とにかく指すことに重点を置き、どんどん研究会の日程を入れてくれる人、対戦相手の棋風に合わせて戦法を考えてくれる人、今研究中の形を教えてくれる人、など総勢14~15人の協力者、チーム山田(自称)ができた。

今思えば、山田の最後のチャンスだろうから、という事で協力してくれたのだと察するが、皆忙しい中、時間を作ってくれたことは本当に有難く、感謝の一言に尽きる。

図1は第22期大山名人杯倉敷藤花戦挑戦者決定戦、貞升南女流初段との一戦から。

【図1は△4四歩まで】

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第22期大山名人杯倉敷藤花戦挑戦者決定戦

戦型は予想だにしない居玉棒銀だった。当然研究範囲にはなく、やられた!と思った。もちろん一時期流行った戦法なので形だけは知識にあるものの、実戦の経験はなかったし、何よりも居飛車党の私が中飛車を指す羽目になるなんて。これはいつもの行け行けバンバンでは相手の思うツボだ。徹底して相手の攻め筋を受け潰す方針にした。

図1からいつもの私なら▲7五歩と攻める手を選んだと思う。でも攻め合いは貞升さんの方が強い、と、チーム山田の「棋風担当」から教わっていたので自重した。

攻めたい気持ちを抑えて図から▲4四同歩、以下△同銀▲4六歩△5四歩▲5六金、と手厚く指すことができたのだが、今までの私の将棋にはない棋譜ができ上がった。

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第22期大山名人杯倉敷藤花戦挑戦者決定戦

さて、まもなく平成が終局を迎える。私にとって平成は、人との出会いや繋がりが如何に大切かということを学んだ時代であり、一歩踏み出すことの勇気を与えてくれた時代だった。

昭和から平成は粛々と移り代わったが、新元号、令和を迎える5月1日は歓喜に満ちたお祝いの日になるであろう。

さらに今年は女流棋士発足から45年目を迎え、6月16日に周年記念の会を開催する予定だ。

女流棋士会会長として、この節目の年に、希望に満ちた令和の幕開けを迎え、祝うことができる。なんと幸せなことだろう。

最後に、ありがとう、平成と仲間たち!

撮影:常盤秀樹

「棋才 平成の歩」平成の将棋界を年表・コラムで振り返る特設サイト

山田久美

ライター山田久美

現在、女流棋士会会長を務め、女流棋界を牽引する。タイトル戦に2度挑戦。特に、第22期倉敷藤花戦では、47歳8カ月での女流タイトル戦登場がこれまでの記録を更新し、尚且つ同時に四段昇段も決め、話題になった。

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