阪田三吉が「阪田流向かい飛車」を指したのはこの1局だけ? 名前のきっかけとなった阪田-土居戦が行われた日【今日は何の日?】

阪田三吉が「阪田流向かい飛車」を指したのはこの1局だけ? 名前のきっかけとなった阪田-土居戦が行われた日【今日は何の日?】

ライター: 君島俊介  更新: 2017年05月11日

今日は何の日?

明治から昭和にかけて活躍し、いくつもの名勝負を繰り広げた阪田三吉贈名人・贈王将。今回紹介する将棋もそのひとつだ。1919年5月11日、大阪市「報恩院」で「木見金治郎七段昇段披露会」が催された。木見七段は後年に大山康晴十五世名人や升田幸三実力制第四代名人の師匠となる。升田はこの前年に生まれた。

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阪田三吉贈名人・贈王将

現在の実力制名人と違って、当時の棋界は終生名人制で、80代後半の小野五平十二世名人が健在だった。関東の関根金次郎八段とその弟子で指し盛りの土居市太郎八段、関西の阪田三吉八段が次の名人候補と目され、当事者以上にそれぞれの後援者が肩を入れた。東西の争いが激しかった時代だ。

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土居市太郎名誉名人

木見七段と仲のよかった土居八段は、招待に喜んで応じて来阪した。披露会には土居のほかにも関東から数人の棋士が参加している。

この会の席上対局として阪田-土居戦が行われた。東西の実力者同士の対局は、阪田のパトロンである柳澤保惠(やなぎさわ やすとし)伯爵のあっせんで、大阪朝日新聞と大阪毎日新聞に掲載されることになった。

この将棋は初手から▲7六歩△3四歩▲2六歩△3二金▲2五歩△3三角▲同角成△同金▲8八銀△2二飛(第1図)と進んでいる。現在は「阪田流向かい飛車」と呼ばれる指し方だ。

【第1図は10手目△2二飛まで】


11日の席上対局は序盤で指し掛けとなり、13日から17日にかけて兵庫県宝塚市の宝塚温泉で指し継がれた。当時は持ち時間の制度や封じ手がなかった。将棋は持久戦になり、阪田は角を打って局面打開を図った。だが、あろうことか角を歩で取られてしまう。(第2図)

【第2図は73手目▲5五歩まで】


後手必敗に思われ、観戦に訪れていた柳澤伯爵が宝塚温泉から引き揚げてしまったほどだが、そこから阪田は底力を発揮。玉頭に厚みを築いて逆転で勝ってしまう。

角損しても強豪土居に大逆転したインパクトも手伝って、第1図の作戦が後年に阪田の創始であるがごとく「阪田流向かい飛車」と誤伝されるようになったようだ。実際は江戸時代から見られる指し方のうえに、阪田には本局以外にこの向かい飛車を指した記録はない。

君島俊介

ライター君島俊介

2006年6月からネット中継のスタッフとして携わる。2016年現在は順位戦・棋王戦・棋聖戦などで観戦記を執筆。将棋連盟ライブ中継で棋譜中継を楽しむ日々。

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