ライター谷木世虫

将棋地口・第6笑 『ヒエ~山 延暦寺』
ライター: 谷木世虫 更新: 2018年05月25日
『熱きなり 駒音休め 沈丁花』
そこはかとなく匂ってくる沈丁花の甘い香り。季節は自分とは関係なく、確実にその時を刻んでいきます。
私は将棋クラブの席主ですが、棋力は低く、いつもこれでいいのかな? と思いつつ続けているのですが、いまさら強くなれるわけではありません。それを知っている常連さんは、「それでいいのヨ。"席主は強くなければいけない"という決まりはないし、我々とちょうど五分辺りがいいのヨ。第一、席主が強いと敷居が高く、こっちは恥ずかしくって入ってこられないからね~」と、慰めてくれるのですが、なんだかほめられているのか、けなされているのか......。でも、棋力が低いため、弱い人の気持ちは分かるのです。
それにしても時々、暇なときにお客さんと指すのですが、ここのところ誰と指しても勝てず、一手詰めさえ見えない日が続いています。しかし、それならまだしも、相手の駒が利いている升目、それもすぐ隣に駒がいるのにその升目に自分の駒を打ち、相手に取られてから気がつく始末ですから、何をかいわんやの体たらく。いいかげん嫌気がさして、いっそ閉店してしまおうかと思うこともたびたびです。
もともと弱いのですからしょうがないのですが、それにしてもあまりといえばあまり。今日もそんな将棋ばかりとなっていますが、そんなとき、ふっと思い出したのが春の半ばに嗅いだ沈丁花の香りでした。
"そうだ、こういうときは花の香りでも嗅いで、リフレッシュしないと......ここはひとつ、気を休めるのが最善手"
そういう思いが湧いて冒頭の句が浮かび、ヒョイッと口から出たのですが、残念ながら当クラブの常連さんには私の感傷は(当然ながら)伝わっていなかったようです。
「俳句? どうしたの、どこか体の具合でも悪いんじゃないの~?」
「もう店を閉めて、帰って寝たら~」
と、口さがない常連さんから気のない同情を買っては、さすがにダメとしたもの。それじゃ~お言葉に甘えて、と思うものの、さすがにそうはいきません。私は早めに対局を投げ、本業に戻ろうとしたのですが、そこに順さんが元気にやって来たのです。
「おっ、席主がやってるネ。なんだい、もう終わりそうだね~。では次に一局、教えてもらおうか。俺が勝てるのは、席主しかいないからなぁ~」
順さんは65歳。もうとっくに現役の仕事はリタイアしているものの、まだ遊ぶ年ではないと、鉄道の保線工事の仕事をしています。日焼けしたその顔は、まさに元気そのもの。私はフッと沈丁花の香りとのアンバランスを思い、おかしさが込み上げてきて、ついつい順さんの誘いにのってしまいました。しかし、それが間違いで、やはり止める一手だったと気づいたのは、順さんとの将棋が終盤になってからでした。
順さんは年季の入ったアマ初段。定跡にとらわれない独創的な指し回しが特徴です。案の定、序盤はそんな出だしとなり、私はいいように振り回されてしまいました。とはいえ、図1では勝ちと思っていたのですが、振り回された後遺症があり、順さんにヤケクソ気味に▲3二飛と打たれて時間のない私は悲鳴を上げたのです。
「ヒェ~山、延暦寺!」
その飛車は、取っても逃げても詰まなかったのに......。
【図1は△4九竜まで】
*図1から、▲3二飛△1三玉▲3一角△2二桂(参考図1)▲同角成△同角▲2五桂△1二玉▲2二飛成△同玉▲3一角△同玉(△1二玉は、▲1三銀△同桂▲同桂成△2一玉▲2二角成で詰み)▲4二銀成△2二玉▲3一銀△1二玉▲2二金(参考図2)で、後手玉は詰んでしまいました。
【参考図1は△2二桂まで】
【参考図2は▲2二金まで】
しかし、△2二桂(参考図1)と合駒する手で△2二銀(参考図3)の合駒なら、詰まなかったのです。
【参考図3は△2二銀まで】
また、当初の▲3二飛に△同金と取り、▲同銀成に△1三玉でも詰みませんでした。
将棋地口


監修前田祐司九段
早見え、早指しの天才肌の将棋で第36回NHK杯では、谷川棋王、中原名人を撃破(※肩書きは当時)。
決勝戦で森けい二九段を千日手の末、勝利し棋戦初優勝を飾った。2014年6月に現役を引退した。