木村義雄十四世名人が皇居で名人復位?第8期名人戦「済寧館の決戦」とは?【今日は何の日?】

木村義雄十四世名人が皇居で名人復位?第8期名人戦「済寧館の決戦」とは?【今日は何の日?】

ライター: 君島俊介  更新: 2017年05月24日

江戸時代に江戸城で行われていた御城将棋。明治以降、御城将棋は指されていないが、皇居での対局は1局指されている。それが1949年5月24日に指された第8期名人戦五番勝負第5局の▲木村義雄前名人-△塚田正夫名人戦だ(戦後の不安定な情勢が続いて、この期のみ七番勝負ではない)。対局場は皇居内の済寧館(さいねいかん)で、本局は「済寧館の決戦」とも呼ばれる。

済寧館は300畳ほどの柔剣道の道場。畳があるのは柔道用の道場だが、柔道用ゆえにバネ仕掛けになっており、歩くと揺れる。そこで、板の間の剣道場の近くを対局場とし、緋色の毛氈を敷き、コの字型に金屏風をめぐらせた。小説家の坂口安吾は、観戦した模様を「勝負師」という随筆で書き残している。

第8期名人戦は塚田名人に木村前名人が挑戦したシリーズだ。戦後、名人戦の持ち時間は3日制各15時間から1日指し切り制の各8時間となった。1947年の第6期名人戦は、新しい環境に慣れない木村が2勝4敗で塚田に敗れて失冠する。だが、木村は2年で持ち時間や流行の角換わり腰掛け銀に適応した。角換わり腰掛け銀では、「木村定跡」と呼ばれる定跡が現在でも名高い。

木村が挑戦権をつかむと、画家の梅原龍三郎、小説家の志賀直哉、井伏鱒二らそうそうたる文化人が後援会を結成して支援する。木村は相撲の名横綱・双葉山と並び称されたほどよく知られる存在で、戦前の象徴でもあった。応援する声も多かったのだ。

名人戦前に木村は塚田に8連敗していた。五番勝負第1局でも塚田が勝ったが、その後は一進一退の攻防で、決着は済寧館の第5局に持ち込まれた。

第5局は角換わり腰掛け銀で、中央で激しく駒がぶつかった。第1図から△5二桂が疑問手で、▲4八金△3三桂▲2九飛の好手順で先手有利となった。図では△5五桂と攻めるところだったとされる。

【第1図は65手目▲3七角まで】

巧みに指し回した木村が25日午前4時2分に93手で制して名人復位を果たす。終局後の取材も淡々と応じていた塚田だったが、帰宅して家の前で無邪気に遊んでいる子どもの姿を見て、思わず泣き崩れたという。

投了図は後手の角損だが、中盤戦とあって早い終局は話題になった。疑問を持った昭和天皇が、侍従を相手に塚田側を持って投了図から指し継いで勝った逸話がある。投了以下は、△2四同歩▲同飛△2三歩▲3四飛△3七金▲同飛△3四歩▲2六桂が一例で先手勝勢である。

【投了図は93手目▲2四歩まで】

君島俊介

ライター君島俊介

2006年6月からネット中継のスタッフとして携わる。順位戦・棋王戦・棋聖戦などで観戦記も執筆。将棋連盟ライブ中継の棋譜中継で観る将ライフを楽しむ日々。

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