前田九段の〝お目を拝借〞第11手「上座の悲劇」

前田九段の〝お目を拝借〞第11手「上座の悲劇」

ライター: 前田祐司九段  更新: 2020年02月22日

「満つれば欠ける世の習い」。B級1組の順位戦で3期連続、〝首の皮一枚〞で助かってきた私も、とうとう4期目で年貢を納めることになります。そこには将棋界の慶事、竜王戦の発足が関わっていました。

4期目のB級1組順位戦

昭和63年(1988年)6月から始まった第47期B級1組の順位戦も、翌年、平成元年3月17日に最終局を迎えました。ここまで〝高~い家賃〞を払い続けている私は4勝6敗。またも最終局に残留or降級が懸かる状況です。今期の参加者は12名で、昇級2名・降級1名という条件。相手は高橋さん(道雄九段)でした。彼はこれまで王位のタイトルを3期、棋王を1期獲得している若手のバリバリ。さらに高橋さん、実はこの時、「十段」のタイトル保持者だったのです。

しかし、竜王戦の発足に伴い、高橋さんは「十段」のタイトルを返上。無冠になるとともに、段位は「七段」になっていました。もし、十段戦が存続し、そのタイトル戦で失冠していたとしても、当時の規定で肩書は「前十段」となり、私との順位戦では高橋さんが上座に就くことになります。ところが、「七段」の肩書となったため、順位戦の最終局では先輩の私が上座に座ることになったのです。これが、私の降級の発端になろうとは「お釈迦様でも気が付くメェ~」だったのネ。

最終局の日、東京・将棋会館4階の控室、「桂の間」は見物人で溢れ返っていました。最終局の悲哀を見て、喜びに浸ろうという将棋界独特の住人が押し寄せていたのです。「人の不幸は蜜の味、人の幸せ砂の味」というのが、我が業界の精神ですからネェ~。

この日は人気の対局が2局ありました。一つは勝浦修九段VS石田和雄八段戦。7勝3敗の石田さんは勝てば昇級で、勝浦さんは次期の順位の争いです。もう一つは、言わずと知れた前田祐司七段VS高橋道雄七段戦。高橋さんも7勝3敗で昇級を争っている状況。

すでに一人は昇級が決まっており、あと一人の枠をめぐっての熾烈な争いです。順位は石田さん8位、高橋さん11位ですから、石田さんは勝てば即、昇級。負けても高橋さんが負ければ昇級できます。半面、高橋さんは自身が勝って、石田さんが負けなければ昇級できません。つまり、〝キャンセル待ち〞という条件。

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当時の雑誌より

この2対局の相互の関係を整理すると、石田さんは前田を応援し(前田に勝ってほしい)、高橋さんは勝浦さんを応援している(勝浦さんに勝ってほしい)という図式になります。なお、肝心の私本人ですが、勝てば残留が決定し、負ければ降級が決まるという状況でした(ちなみに順位は10位)。

私は石田さんの昇級の援護射撃も受け持っているのですが、強敵を迎えたときの弱者の戦い方は、何よりも雑念を排し、「無心」になることです。それよりほかに方法はありません。自分の将棋だけに徹底集中するしかないのです。

私はひたすら盤面だけを見るように努め、「無心」に徹しました。ところが、夕方の4時ごろだったでしょうか、ふと視線を上げると、石田さんと目が合ってしまったのです。

石田さんとはある出来事がきっかけでお付き合いいただけるようになった、敬愛すべき先輩です。その出来事とは......。 

コウモリ事件

今回の本題からさかのぼること11年前、昭和53年3月10日、この日もB級1組順位戦の最終局の日で、二人がA級への昇級・昇段を争っていました。一人は花村さん(元司九段=故人)、もう一人は石田さんです(当時七段)。両先輩に共通しているのは、気前の良いこと。もし昇級したら、きっとその夜は大宴会になり、ご馳走にありつけるだろうと、さもしい前田は考えたのですネ。早速、東京・将棋会館へ応援に出向きました。

到着後、対局室脇のトイレに行くと花村さんと遭遇したため、「先生、A級カムバックを目指し頑張ってください。応援しています」と声援を送ったのです。それからしばらくして、今度は廊下で石田さんに遭遇。私はもちろん、「先輩、頑張ってください。応援しています」と声を掛けました。すると石田さんは、「嘘です」と言ってきたのです。「何をおっしゃいますか、心から先輩の勝利を願っております」と言うと、「嘘を言ってもダメです。私は聞いていました」とおっしゃるではありませんか。

ナンと、石田さんは私と花村さんの会話をトイレの個室で聞いていたのです! 

石田「まったくアナタという人は......」
前田「............」
石田「あっちでペコペコ、こっちでペコペコ。まるでコウモリのような人ですね~。花村先生を応援しているアナタの前に、私は個室から出られませんでしたヨ」
前田「............」

コウモリというより、狼少年になった私は、汗顔の〝行ったり来たり〞。両先輩への応援は、もちろん社交辞令なのですが、当事者としては、なかなかそうは受け取れなかったのでしょう。

どちらが勝ってもご馳走にありつこうという戦略は間違いではありませんでしたが、私のさもしい根性が戦術を誤った、いや、状況への配慮に欠けたという結果でした(えっ? もともとの考えに問題がある? ハイ、スミマセン......)。

でも、これがきっかけで、以来、石田さんとはより一層、親しくさせていただくことになりました。

「無心」から「煩悩」へ・・・

話を戻しますが、石田さんと目が合ってしまった私は、上記のことを思い出し、石田さんへの援護射撃=大宴会の図式が脳裏を占めたのです。「弱者の心得=無心」を忘れ、「煩悩」の虜になった私に勝機は巡ってこず、B級1組を陥落

あの時、下座に座っていれば、目は合わさなかったのにナァ~。

前田九段の〝お目を拝借〞

前田祐司九段

ライター前田祐司九段

1954年3月2日生まれ。熊本県出身。アマ時代から活躍し、1970年、71年と2年連続でアマ名人戦熊本県代表として出場。1972年に4級で奨励会入会。1974年9月に四段となり、2000年9月に八段となる。 早見え、早指しの天才肌の将棋で第36回NHK杯では、谷川棋王、中原名人を撃破(※肩書きは当時)。 決勝戦で森けい二九段を千日手の末、勝利し棋戦初優勝を飾った。2014年6月に現役を引退した。

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