【 初代「15級」】「清廉」八木下征男と八王子将棋クラブの四十一年【将棋世界2019年3月号のご紹介】

【 初代「15級」】「清廉」八木下征男と八王子将棋クラブの四十一年【将棋世界2019年3月号のご紹介】

ライター: 将棋情報局(マイナビ出版)  更新: 2019年02月05日

将棋世界2019年3月号からスタートする短期連載【「清廉」八木下征男と八王子将棋クラブの四十一年】は、2018年12月24日に41年の営業を終えた「八王子将棋クラブ」の歴史を、北野新太氏が回顧する内容です。

羽生善治九段、阿久津主税八段、中村太地七段ら多くの棋士が巣立った名門の足跡を、八木下席主の半生とともに振り返ります。

本ページでは「対談 八木下征男×羽生善治」の一部分、【初代「15級」】をご紹介します。
【文・構成】 北野新太【撮影】 中野伴水

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初代「15級」

―― 羽生さんが最初にクラブを訪れたのは78年8月2日、開所1周年を記念して開催された子ども大会で、まだ7歳でした。

羽生 昔の記憶がごっちゃになってしまっていて、その日のことを私はほとんど覚えていないんですけど、道場の中がごった返していた記憶だけあるんです。

八木下 私なんて今年の8月からの記憶だけで、いろんなことがごっちゃになってしまっておりますから(笑)。でも「羽生」と書いて「はぶ」と読むのは珍しい名字だなあ、と思った記憶はあります。私は間違えて羽生さんを中学生と対戦させてしまったんですよね......。

羽生 いえいえ、手合を付けるのも大変なくらい混雑していましたから。夏休みが終わって、10月頃から通うようになってからのことはよく覚えています。最初の頃は八木下さんに6枚落ちで教わりましたよね。

八木下 羽生さんが初代の15級ですからね(註:八木下席主は、真剣に将棋と向き合う羽生少年に昇級の喜びを味わってもらおうと「15級」を新設。後にクラブの常設級位になる)。

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羽生 自分が初めての15級だったということも後になってから知ったことなんです。子どもですから、このくらいから始めるものなんだろうと思っていました。でも、ん......やけに7級、8級くらいの子が多いぞ? なぜ自分だけ15級? と思った記憶もありますけど(笑)。

八木下 羽生さんが通うために始めて来たのは10月でしたけど、お母さんに連れられて一緒に来て、入る時にもモジモジしていて。お母さんの後ろに隠れて、足の間からこちらを見ている。後ろから背中を押されて、ようやく入って来られたんですよ。

羽生 あの場所の時(註:クラブは41年間で八王子駅北口近辺で3度移転し、4ヵ所で営業した。羽生少年が初めて来た頃は2ヵ所目)は外から中の様子が分からないので、入りにくい雰囲気がありました。でも、入ってみると、小さかった私の面倒を皆さんが見てくれました。あの頃のことを振り返ると、八木下さんには私の長話によく付き合っていただいたなあ、という思いがあります(笑)。手合を付けたり道場のことで忙しいにも関わらず、私はまだ子どもで何も考えずにずっと喋り続けて、だいぶ迷惑を掛けてしまったなあと。

八木下 いえいえ。でも、よく覚えてますよ。強くなってくると、羽生さんは前の週に放送されたNHK杯の棋譜を全部覚えて初手から詰みの局面までを全部、私に言って聞かせて来るんですよね。盤に並べもせずに。私はとてもとても付き合えなくて、適当に誤魔化すしかなくなってしまったり(笑)。

羽生 すいませんでした(笑)。あと印象に残っているのは、まだアマ二段、三段くらいの時にクラブの大人たちのリーグ戦に特別に参加させてもらったこと(註:80年10~12月、第1回選抜最強者決定リーグ戦で2勝7敗)があるんですよ。で、ああ、やっぱり強い人は強いんだなあ、と子ども心に実感したことは今もどこか残っています。

―― 負けて泣いてしまったことも一度だけあるとか......。

羽生 たしか初段から二段に上がる昇段の一局で、角落ちの将棋でした。何となくそういうことがあったなあと覚えています。負けて、何か思うところがあったんでしょうね。

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八木下 あと、羽生さんが小学生名人になる前のことですけど、酒場の女将さんに『今、ウチに来ている子で、すごい子がいるんだよ。きっと、将来は名人になる子だよ』と言ったことがあるんです。で、ウチの道場に来ていた強豪の方が女将さんから偶然聞いて『そんなに強い子なんているわけない。じゃあ、俺が勝負してやろう』ということになって。数週間後、2人とも道場に来ている時に手合を付けたんです。そしたら、羽生さんが勝っちゃった。

羽生 そんなことがあったんですね。全然知りませんでした。でも、6年生になって奨励会を受けるかどうしようか、という頃は、トレーニングというわけではないですけど、かなり強い人とばかり指していたようなことを今でもなんとなく記憶しています。

―― 小池重明さん(「新宿の殺し屋」との異名を持つ伝説の真剣師で、後のアマ名人)との接点もあったとか......。

羽生 そうなんです。さすがに将棋を指したことはないんですけど、アマ名人戦の都下予選を道場でやっていたので、小池さんが初めて出場した時の準決勝と決勝の記録を取ったのは私なんです。当時から新宿では有名だったかもしれませんが、何も知らない小学生にとっては普通のおじさんでした(笑)。後々になって、あの時のあの人が小池さんだったんだ、と初めて知ったんです。私も4、5年生の時は都下予選に参加しましたけど、さすがに大人の大会では小学生は歯が立たなかったです。

八木下 予選だけで3日間という長丁場で、たしか小池さんが優勝した時の別ブロックで羽生さんも優勝したような...。

羽生 予選は通って、1回戦で負けてしまったような記憶があります(笑)。

―― 道場の忘年会にも。

羽生 忘年会で八木下さんがカラオケを歌っている席に隣で座って聴いていた記憶がありますね。

八木下 羽生さんも歌っておられましたよ。『氷雨』(註:佳山明生が77年に発表したデビュー曲。大人の恋を歌い『帰り~た~く~な~い~』のフレーズが有名)を(笑)。

羽生 あれは私が中学生の頃でしたでしょうか。八木下さんは『与作』(註:78年に発売された北島三郎の代表曲)を歌っていた記憶があります。あれから『与作』がどこかで流れる度に、八木下さんが歌っていたな~って思い出していましたよ(笑)。

将棋世界2019年3月号では、9ページにわたるインタビュー全文のほか、歴史ある名門道場の閉場の様子、席主・八木下氏や、閉場を惜しみ訪れた羽生九段をはじめとする棋士たち、常連客たちの様子を描写した北野氏による書き下ろし「第1回 聖なる夜に」をお読みいただけます。

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