「名人に香車を引く」王将戦の創設時に升田は。【升田幸三特集 第2回】

「名人に香車を引く」王将戦の創設時に升田は。【升田幸三特集 第2回】

ライター: 古屋甲州  更新: 2019年01月14日

升田幸三実力制第四代名人(以下、称号は省略します)は、農家の四男として大正7年(1918年)に生まれました。たいへんなわんぱく坊主だったそうです。将棋は小学2年生のころ兄に教わり、棋士を志して実家を飛び出したのが13歳。無鉄砲な家出少年ですね。

このとき、実家にあった物差しの裏に書き残したのが、有名な「この幸三、名人に香車を引いて勝ったら大阪に行く」です。

文言には異説もありますが、そもそもこの文章が意味不明ですし、本人も「当時のことなど、よく覚えとらん」と言っているので、まあ「ものすごく強くなって、都会で名を上げる」くらいに解釈すればいいでしょう。明日も分からぬ家出少年ながら、覚悟と威勢のよさは見事です。

それにしても、この妄想みたいな書き置きが、約20年後に現実のこととなり、しかも歴史に残る事件につながるとは......。

さて、「香車を引く」という言葉は、熱心な将棋ファンでなければ分からないでしょうから、説明しておきましょう。

将棋には同じ戦力(駒数)で戦う「平手」と、ハンデとして上位者が戦力を減らす「駒落ち」があります。飛車と角を落とす「二枚落ち」がメジャーなハンデ戦ですね。ハンデのことを、将棋界では「手合割り(てあいわり)」といい、「あなたと私は二枚落ちの手合割り」というような言い方をします。

「香車を引く」とは、「香落ち」というハンデを上位者からみた言い方です。香車は左右にひとつずつありますが、上位者側の左、下位者から見て右上にある香車を落とします。

それでは「名人に香車を引く」とは、どういうことでしょう。

名人は当時最上位者ですから、本来駒を引かれる立場ではありません。それをコテンパンにやっつけて「もうあなたのほうが強いから、次からは香落ちで指してください」と言わせるのと同じことです。これは名人にとって引退ものの屈辱です。

将棋界では江戸時代から、名人がそういうことにならないようなシステムで運営されてきました。「名人に香車を引く」は実現の可能性などなく、升田少年の夢や心意気に過ぎなかったのです。

ところが、戦後になってそれが実現するかもしれない棋戦が誕生したのです。

毎日新聞が昭和25年(1950年)に創設した王将戦では、王将位を決める七番勝負で星に3つ差をつけられると、平手から香落ちのハンデ戦に落とされることになったのです。正確には、香落ちと平手を交互に指す「半香」という2局1組のハンデです。

例えば〇●〇〇〇という星で王将位が決まっても、7局指すことが義務付けられていたので、香落ちを指さなければなりません。そのため正確には「七番将棋」と呼ばれます。

このように、棋士の段位ではなく勝敗でハンデを動かしていくことを「指し込み」といいます。指し込まれた方は、敗戦の痛手とともに屈辱的な対局をしなければなりません。

創設時、この方式に猛反対したのが升田でした。もし名人が香車を引かれることになったら、将棋界の秩序が揺らぐと危惧したのです。当然、自分が名人と戦えばその可能性は低くないという自信があったのでしょう。敵としての名人には不遜な振る舞いも珍しくありませんでしたが、「棋士の格」にはかなり厳格な考え方を持っていました。

また升田は、名人戦を主催する朝日新聞とは深いつながりがあり、待遇が悪かった関西棋士の代表として将棋連盟内での確執も抱えていました。複雑な大人の事情もあったのです。

もちろん、戦後間もない時期の新棋戦創設は、将棋界にとってありがたいことでした。そして、リスクを背負うことになる木村義雄名人が「ときの第一人者が指し込まれることなどない」と言ったことが決め手になり、反対意見は押し切られたのです。

升田が「人の気も知らないで。それならオレが思い知らせてやる」と思ったかどうか。

こうして始まった第1期王将戦は、奇しくも木村と升田の七番将棋となり、昭和26年(1951年)12月に開幕しました。

このとき升田は33歳。病気がちだったとはいえ、指し盛りの年代です。今のタイトル保持者では渡辺明棋王が近い年齢ですね。

一方の木村は46歳。現在の羽生善治九段よりも年下ですが、当時は老齢に近い年代です。全盛期にくらべると衰えは隠せない時期になっていました。

次回はいよいよ「陣屋事件」が勃発します。

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升田幸三をご存知ですか

古屋甲州

ライター古屋甲州

サラリーマンを定年前に卒業し、フリーに転身した昭和のおじさん。 活字媒体からデジタルメディアまで、制作全般に携わってきた。 棋戦運営の経験もあり。

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