「絶対にプロになれないからやめろ」の一言からはじまった森けい二九段の将棋人生

「絶対にプロになれないからやめろ」の一言からはじまった森けい二九段の将棋人生

ライター: 玉響  更新: 2017年08月14日

今年の5月に現役を引退された森けい二九段にインタビューをお願いしました。
まずは将棋との出合いから伺いました。

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昭和54年頃の森九段。将棋年鑑用に撮影されたものと思われる。

森けい二九段略歴
高知県出身で1968年4月に四段に昇段。1977年の第30期棋聖戦五番勝負でタイトルに初挑戦。大山康晴棋聖に敗れるも翌年の第36期名人戦七番勝負で中原誠名人に挑む。これが有名な「剃髪の挑戦」で、今もなお語り継がれている。その後、第40期棋聖戦で初タイトルを獲得、第29期王位戦では、谷川浩司王位(名人)から王位を奪取。タイトル獲得は、2回(棋聖1、王位1)、タイトル戦登場8回、棋戦優勝2回。

――森九段は将棋を覚えたのが16歳と晩学派でした。どのようなきっかけで出合ったのですか。

「私はもともと将棋指しになる気はなかったし、将棋を始めるのが遅かったんですね。中学時代のときにアマチュア2級ぐらいの親友がいたんです。こちらは将棋のルールも知らなかった。高校に入ったとき、その親友と将棋が指したくて、そこで初めて将棋を覚えようと思ったんですね」

――熱中してから道場に通い詰めたそうですね。

「道場に通いたいなと思って『将棋世界』を見たら五反田の将棋道場の広告を見つけて。当時は恵比寿に住んでいて、高校が新橋にあるんだけど、その途中に道場があったんです。そのときもプロになる気はなくて、そもそもプロ棋士という存在も知らなかった。将棋を覚えたいだけで道場に行って、アマチュア7級から始めて。いちばん最初に80代ぐらいのおじいさんに二枚落ちで教わったんだけど、全部駒を取られて悔しい思いをしました。そこで将棋に興味を持ったから、そのおじいさんが実は私の大恩人だったんですね」

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――ルールはいつ頃に覚えられたのですか。

「まだ知らなかったんですよ。歩の動かし方ぐらいは知ってましたけど、正確にいうと金と銀の区別もついていなかった。それが初めて将棋道場で指したときです。次の日から学校が終わったら毎日将棋道場に通いました。夕方の16時頃から23時頃まで、私はとにかく早指しで1局10分くらいのペース。1日に30局くらい指してましたね。アマチュア時代は短くて、9カ月ぐらいしかない。3カ月で初段、半年で三段に上がりました。ルールを覚えてから1カ月後にはその親友に勝っていましたね」

――すさまじい昇段ペースですね。プロ棋士を志すまでの経緯を教えてください。

「道場で自分より強い人がいなくなって、つまらなくなったんですね。それで将棋をやめようかなと思っていたんですけど、あるとき道場に少し年上の人が3人来ていたんです。そのうちの2人が当時、奨励会3級くらいで、後に兄弟子になる人。1人が学生名人でした。その3人だけにはどうしても勝てなかったんですよ。道場で一番強くても。彼らは月に1回くらいしか遊びに来なくて、その時に負けてばかりでは悔しいので、席主にどうすればまた指せるか聞いたんです。そうしたら『あの人たちは奨励会員だから、奨励会に入ればいくらでも指せる』と言われて。

道場の師範が大友先生(故人・昇九段)だったので、弟子入りをお願いしたんです。ところが大友先生が『弟子にはしない。君は2人の兄弟子に比べると将棋の筋が悪すぎる。絶対にプロになれないからやめろ』と言われたんですね。私は、『あの強い人たちと将棋がやりたいだけで、プロになる気なんて全然ないんです。1年だけやらせてください』と食い下がったんです。そうしたら大友先生が根負けして、『じゃあ試しに受けてみるか』と言ってくださって」

――奨励会試験はどうだったのですか。

「試験は4級で受験したんだけど、対局の結果は2勝4敗。本来は不合格なんだけど、幹事の芹沢先生(故人・博文九段)が理事会に掛け合ってくださったんです。そうしたら、5級ならいいだろうと。当時は奨励会員が少なくて、そういったことが珍しくない時代でした。記録係要員ですよ(笑)。でも、その時に奨励会に入れてもらえなかったらプロになっていなかったかもしれませんね」

――修業時代、印象深かったことはありますか。

「私は記録係の記録を持っていて、ひと月に17回取ったことがあるんですよ。当時、佐藤健伍さん(故人・準棋士=現在の指導棋士のこと=六段)という人が16回だったんだけど、その記録を破ったんです。学校なんか行かないで将棋会館に泊まり込みでとっていたから、途中で高校は中退してしまいましたけどね。土日は対局がないからほとんど毎日ですよ。記録が終わってからも先輩に朝まで将棋を教わって、また次の日も記録を取っていました。それはずいぶん勉強になりましたよ」

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――当時、憧れていた棋士はいましたか。

「升田幸三先生(故人・実力制第四代名人)しかいませんね。"マスコウ"の将棋はみんな並べましたよ。実はね、大山先生(故人・康晴十五世名人)の将棋は並べたことないんですよ。そんなに強いと思っていなかったから。でも強いんだよね本当は(笑)」

――奨励会は5年間在籍し、21歳でプロデビューを果たしていますね。

「三段時代、最初の頃は指し分けでしたが、いつか四段になれるだろうと思っていました。リーグ戦は当時、東西に分かれていて、半年に1回、東と西の優勝者で戦う。東西決戦で負けても敗者戦がありました。ところが、優勝するどころか4期目はボロボロの成績で、三段から二段に落ちそうな成績だったんです。

その時、衝動的に死のうと思って奥多摩湖に行って。だけど、死にきれないで戻ってきて、新宿の書店で断食の薦めというのを見つけたんです。そこで初めて断食をしました。それが20歳の時。断食に比べたら将棋なんて甘い。将棋なんて負けたって死ぬわけじゃないんだと思ったら勝ち出して、すぐに四段になった。でも、その東西決戦は、西の優勝者の森安さん(故人・秀光九段)に負けたんだよね。

それで山田道美先生(故人・九段)が応援してくれてね。東西決戦敗者戦の前の日にハンバーグ定食をご馳走になったんだけど、セロリが食えないのに食べさせられて(笑)。そして野本さん(虎次八段)に勝って四段になった。だから森安さんは棋士番号99番で、私は100番なんだ」

驚異的なペースで将棋を覚えて上達した森九段ですが、奨励会時代は、いろいろな人の助けもあって四段昇段を果たすことができたようですね。第2回はプロデビュー後のお話を伺います。

森けい二九段インタビュー

玉響

ライター玉響

平成元年生まれ。2004年から2016年1月まで奨励会に在籍。同年5月からフリーライターとして活動開始。以来、日本将棋連盟のネット中継業務を担当している。ほかに将棋番組制作、将棋教室の仕事にも携わる。将棋漬けの日々を送っているが、実戦不足なのが悩み。

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