ライター相崎修司
真部九段が指さなかった「幻の△4二角」。お通夜の日に奇跡の再現が・・・【師匠との思い出・小林宏七段インタビュー vol.4】
ライター: 相崎修司 更新: 2017年03月10日
最終回となる今回は、晩年の真部一男九段について小林宏七段に語っていただきました。
幻の名手として知られる△4二角について、そして真部九段の将棋界についての鋭い考察についての話となります。
――晩年の真部九段についてうかがいたいと思います。
「亡くなった年(2007年)の年賀状だけを取ってあるんです。若い頃の10歳差と、年を取ってからでは違うじゃないですか。もっと近づけて、これからというのに残念ですね。そうはいっても『お前は20代の頃から弟子らしくなかった』と言われちゃうかな」
真部九段からの年賀状を見る小林七段。撮影:相崎修司
――絶局となった対豊島将之四段(当時)戦、その『幻の△4二角』についてもお聞きしたいと思います。
「春に肺の病気で入院して、その時にきちんと検査を受ければ、と思わなくもないのですが、酒好きの師匠は常に体調がおかしかったから気にしなかったんでしょうね。癌が判明したのが9月くらいで、順位戦は10月末だったかな。その数日前に、大野(八一雄七段)さんが呼ばれて癌だと聞いた。僕には対局が近かったから、伏せていたんじゃないかな。よく対局場まで行ったと思います。服を着るのも大変な状態でした。その日、僕は夜中まで将棋を指して、翌日に癌のことを知らされました」
――そうだったのですか。
「入院中の師匠を励ますつもりで、自分なりに癌の研究をして話をしても、当たり前ですが反応がありません。そこで将棋の話ならばと。とは言え、頭がフル回転するから病気の時にするものではないと、帰り際にちょっと話したら『角打てば俺の方が優勢だと思うんだよな』と。表情が違うんですよ。苦しそうなんだけど、将棋の話をするときは、よみがえるというか、そういう感じでした」
投了図は【▲6七銀まで】
――棋士としての魂を感じます。
「帰宅してから並べてみると、最初は意味が分からなかったんだけど、確かに好手なんですよ。午前中で投げた人がなんでこんな手を考えているのとびっくりしました。話を聞いた翌日に将棋会館で中田功七段に会い、角打ちの話をしたら広まりました。知られたのはよかったですね」
――真部九段は残念ながら11月24日に亡くなりました。27日がお通夜でしたが、その日に行われた大内延介九段―村山慈明四段(当時)戦で、△4二角を大内九段が再現します。
「大内先生も大したものです。あのクラスは違うんですよね。初見では浮かばない一着です。次に村山君が指した▲8九銀は根性があるよね。あそこから指し継いで郵便将棋のようにやろうと病室にマグネット盤を持っていきましたが、この銀引きは1秒も考えなかった。▲3六歩△9二香▲3七桂くらいかなと考えていました」
――運命的な巡り合わせですよね。
「まさかあんなことが起こるとは、不思議です。大内先生に感謝したいですね。お通夜の日に現れることが奇跡です」
――あらためて、真部九段との師弟関係を振り返ってみていかがでしょうか。
「もともと、年が近いから他の師弟関係とは違うと思います。お互いに思ったことを口に出して、話ができました。弟子としては非礼が多々あったはずですが、いつも一人の男として真剣に受け止めていただきました。今から思うと、夢のような時間でした。これだけ長い時間、酒を飲み、将棋を何百番も教わる、そういう師弟関係はなかなかないでしょう。現在のソフト問題も、亡くなる1年ほど前に師匠と激論を交わしました。すでに詰みレベルではプロ級で『早く規制をしなければだめじゃないか』と。当時の私は将棋界にそのような規制は必要ないと考えていたのですが、その後に考え方を変え、師匠が正しいと思いましたね。今回、ご存知の通り、結果として世間を巻き込む騒動となりましたが、『ほら見ろ、もっと早く手を打たないからこうなるんだ』という声が聞こえてきそうです。師匠の杞憂が現実になってしまいました。今回の騒動については棋士が皆責任を持たなければいけません。僕も一棋士として、将棋ファンの皆様にお詫びしたいと思います」
――師匠から受け継いだものを後輩に伝えるということにもつながりますね。
「師匠から言われたことが僕の中に入っていれば、自然と後輩に伝わっていくと思います。後は『升田将棋の世界』を読んでもらいたいですね。この続きを読みたかったです」
以上、小林七段に聞いた師匠・真部九段との思い出についてでした。次回のこのシリーズもぜひお楽しみください。