ライター田名後健吾
将棋コラム インタビュー〈さわやかだいちゅき〉菊地史夫さん
『父・菊地常夫とボク』【前編】
ライター: 田名後健吾 更新: 2024年09月06日
吉本興業の将棋大好きお笑い芸人として活躍中の〈さわやかだいちゅき〉ふみおこと菊地史夫さん(32歳)は、2022年5月に他界した故・菊地常夫八段(享年72)の二男です。
でも、親子関係だったのは史夫さんが11歳までで、以来15年ものあいだ絶縁状態にありました。
亡き父との幼い頃の記憶と別れの理由、後年に将棋を通じて和解した経緯と死について、語っていただきました。
父と子の心温まる物語――。
【構成】田名後健吾
父は棋士
将棋ファンの皆さん、こんにちは。僕は吉本興業所属のお笑いコンビ〈さわやかだいちゅき〉のふみおこと、菊地史夫と言います。結成10年、まだ売り出し中の身ですが、将棋(将棋ウォーズ三段)が大好きで、YouTube『よしもと将棋芸人 と金チャンネル』で、吉本関東将棋ブの仲間たちと将棋番組を配信しているので、ぜひご覧いただけたらうれしいです(チャンネル登録もよろしくお願いします〈笑〉)。
吉本関東将棋ブのメンバーと。前列中央が史夫。同列右端は吉本興業所属棋士でもある谷合廣紀四段
さて、「菊地」姓にピンときた方はかなりの将棋通。僕の父は、棋士の菊地常夫八段です。
父から直接将棋の手ほどきを受けた記憶はありません。盤駒が身近にあったので、物心ついた頃には遊んでいました。ルールは、表向きには「母のお腹の中で覚えた」というふうに自慢しています(笑)。
理由はあとで話しますが、父と生活したのは小学5年生までの11年間しかありません。記憶の中の父は、対局のない日に家で将棋盤に向かって将棋の研究をしたり、原稿を書いていたりしている姿です。寡黙な性格で、家ではあまり会話をかわしたりしませんでした。僕は運動が苦手で、幼少期からスイミングスクールに通っていたのですが、父が自転車の荷台に乗せて送ってもらっていました。その道中で世間話をしたような気がします。この取材に際して実家のアルバムを探してみたのですが、父とのツーショット写真を見つけることができませんでした。
父(左)と兄(中央)と虫取りに行った時の写真(1997年8月)。右が5歳の史夫(写真提供・ふみお)
海遊びをする兄弟を見守る父(後ろ姿)。膝の上の犬は、当時飼っていた愛犬のふくちゃん(写真提供・ふみお)
父から将棋の指導を受けたこともありません。一度、六枚落ちで相手をしてもらったことはありますが、勝負というよりも遊びに近いものでした。回り将棋や崩し将棋とかのほうが多かったイメージがあります。将棋にハマっている今となっては、この頃に父にみっちり将棋を教わりたかった。当時もめちゃめちゃ興味がありましたし、ヒマさえあれば将棋で遊んでいたんです。ゲームなども買ってもらっていましたが、飽きると最後は将棋の駒を触っていました。戦術書があれば独学で勉強したと思うのですが、家には幼稚園児の自分が読めるような初心者向けの本はなかったです。たぶん『将棋世界』も送られてきていたとは思いますが、僕には難し過ぎました。
幼少の頃から手つきには自信がありました(写真提供・ふみお)
BSよしもと「第1期吉本芸人将棋最強トーナメント」より
小学校に上がっても、クラスに強い子がいなかったので、遊んでいるうちに強くなるということもなかったし、定跡も知らなかった。棒銀という戦法があることはなんとなくわかっていたので、居飛車にも振り飛車にも棒銀で指していました。
将棋熱が再燃した現在でも最新定跡に疎いのですが、それでも実戦だけで将棋ウォーズ三段になれたのですから、素養はあったのだと前向きに考えています。もし父に本気で将棋を教え込まれていたら、棋士を目指していたかもしれないなと思うこともあります。
初めて見た父の対局
父の現役時代を知っている方ならご存知かと思いますが、正直に言って棋士としてはあまり強いほうではありませんでした。目立った優勝歴はなく、僕が6歳の時にフリークラスに陥落しました。
22歳三段の時に第15回古豪新鋭戦で優勝を果たす。しかし、四段昇段は4年後の26歳(『将棋世界』1971年12月号より)
47歳六段との時『将棋世界』(1996年12月号)のインタビュー記事に登場した菊地常夫六段。「一番は家族で、二番は将棋だよ」と語っていたが......
一度だけ、父がNHK杯将棋トーナメントでテレビに出たのを見たことがあります。オンエアの当日に父が「友だちを連れてこなくていいのか?」と言うので、仲のよい友達を呼んでワクワクしながら一緒に放送を見ました。
ところが、びっくりするぐらい瞬殺されてしまって、場がすごく変な空気になったんです。かなり放送時間が余ってしまい、感想戦の時間が長かったのですが、父が「ここはこうでしたかね」と示す手に「いや、それはこれでだめでしょう。それよりもこう指されたら・・・・・・」「なるほど、そんな手が・・・・・・」といったやりとりを延々と観させられ、僕と友達はいたたまれない気持ちになったのを覚えています。父としては、テレビの全国放送に出演した自分を自慢したかったのでしょうが、コテンパンに負かされる父の姿を見るのは複雑な気持ちでしたね。実はこのエピソードを後年、少し話を盛ってネタにしてライブで話したことがあるのですが、お客さんには結構ウケてました(笑)。
ギャンブルにハマった父
僕が小学5年生(11歳)の時に、両親が離婚したんです。両親は仲が悪く、しょっちゅうケンカしていました。と言っても母が一方的にどなっているだけで、おとなしい性格の父は反論できず言われるがままでした。
ケンカの原因は、父のギャンブル。特に競馬、競輪、競艇といったレースが好きだったみたいで、母の目を盗んではギャンブル通いをしていたようです。あるときは、父が「将棋会館に勉強しに行ってくる」と言って出掛けて、夜に帰宅した父がお風呂に入っている間に、母がバッグの中から馬券を見つけて大ゲンカになりました。
これは最近の話ですけど、YouTubeの取材で神保町の「アカシヤ書店」(棋書専門の古書店)さんに伺った時、古い『将棋年鑑』(平成4年版)を見つけてパラパラとページをめくっていたら、「棋士名鑑」に父の欄を見つけました。アンケートの「1億円あったら何に使いたいか」という質問に対して、父の回答は「パーッと競輪に」(苦笑)。呆れてしまいましたね。
新しいお父さんの「ハブちゃん」!?
離婚の危機は、小学3年生の時にもありました。その時は僕がぐずったために思いとどまってくれました。ところが、二人の間でどういう話になったのかは分からないけれど、学校から帰ってきたら母が「離婚して新しいお父さんを連れてきたから、挨拶しなさい」って言うのです。ビックリして部屋に入ると、普通にそのまんまの父がいます。僕が「えっ、どういうこと?」って聞いたら、母は「あの人はお父さんじゃなくて、お父さんにそっくりな『ハブちゃん』っていう、すごく将棋が強い人なのよ」と言いました。『お父さん』と呼ぶと母に叱られるので、それから小5で離婚するまでの2年間、父のことを『ハブちゃん』って呼ぶナゾの期間がありました(笑)。後から訊くと、生まれ変わって将棋に打ち込んで欲しいという思いがあったからそう呼んでいたそうです(笑)。
父が出て行った日
一度目の危機は乗りきった父ですが、ギャンブルにますますのめり込んでいき、とうとう生活費にまで手をつけるようになりました。あるとき母が給料日に通帳を見たら、家賃より安い額のお金しか振り込まれていなくてビックリしたそうです。父に問いただすと、対局料の前借りをしていたのです。怒った母は、父にアルバイトをさせました。50歳を過ぎた棋士がソバ屋でアルバイトをするなんて前代未聞ではないでしょうか。
それでも父はギャンブルをやめられず、とうとう離婚することになりました。決め手になったのは借金。父がギャンブルをするために、消費者金融から借金していたことがわかったのです。額は大したことがなかったみたいですが、堪忍袋の緒が切れた母は、父に三行半を突きつけたのです。
さんざん夫婦ゲンカを見てきたので、今度こそは仕方がないと諦めました。父親がいなくなることに寂しさは感じましたが、母から恨みつらみを聞いていたので、父に対しての反発心もありました。
父は僕と兄に「じゃあな」と力のない声で別れを告げ、家を出ていきました。寂しそうに歩いて行く背中を、僕はただ見つめていました。