ライター田名後健吾
将棋コラム インタビュー〈さわやかだいちゅき〉菊地史夫さん
『父・菊地常夫とボク』【後編】
ライター: 田名後健吾 更新: 2024年09月06日
夢だったお笑い芸人に
それ以来、父とは音信不通になり、いっさい会うことはありませんでした。母からは二度と会うなと言われたし、父のことを口にするのもタブーでした。たぶん父もそういう状況を知っていて連絡できずにいたのだと思います。
僕は、子どもの頃から目立たない性格でしたが、人を笑わせるのは好きでした。一発ギャグをしたりして、子どもながらに面白いと思うポーズでクラスの友達を笑わせていました。それが楽しくて、将来はお笑いの道に進みたいなと考えるようになりました。
いちばん最初に好きになった芸人は、間寛平師匠でした。4歳ぐらいのときに、吉本新喜劇をテレビで見て、初めて寛平師匠を知ったんです。寛平師匠の持ちネタに、杖をついたよぼよぼのお爺ちゃんに扮した寛平師匠が、ふらふらよろめきながら杖で周りのセットをぶっ壊していくギャグがあるのですが、それを見た僕はロックを感じました。いけないことをして笑いを取るのがカッコいいって思って。
高校を卒業して、東京吉本興業のNSCに入りました。17期生です。入学当初は東京と大阪で600人ずつぐらい生徒がいました。でもNSCはとても厳しいので、どんどん辞めていって、最終的には半分になっていました。同期には「オズワルド」や「空気階段」。大阪だと「蛙亭」や「さや香」とかがいます。
2014年10月30日、同い年のナカジマーズとコンビを組んで「さわやかだいちゅき」を結成。吉本所属のお笑い芸人としてデビューしました。
ネタは僕が書き、劇場でライブ活動の日々。M1グランプリで少しでも先に進めるように頑張っています。
さわやかだいちゅきの漫才ライブの様子(於:∞ドーム 撮影:瀬戸花音)
思わぬ形で父と再会
吉本の大先輩・ロンドンブーツの田村淳さんには、とても可愛がっていただいています。淳さんはツイキャスでいろんな企画をやっていて、若手芸人に何人か手伝いにきてほしいと頼まれて、ある時から自分も関わるようになりました。僕のことを気に入ってくれて、淳さんがプロデュースしていたアイドルのマネージャーをやっていたこともあります。
そういうことを1年半ぐらいやりましたが、本業に専念したくなって、辞めさせてくださいと申し出たところ、食事に連れて行ってくれました。その時に「実は父が将棋の棋士で、ギャンブルで借金を作って家を追い出されて以来、会っていなくて、生きているのか死んでいるのか分からない状態。毎月ウィキペディアで調べて、生存確認をしているんです」っていう話をしたら、淳さんが興味を示してくれて「もし恨んでいるなら会って和解しようよ、俺の番組でお父さんを捜すから、出てみる?」と誘ってくれたんです。それが『田村淳の地上波ではダメ!絶対!』(BSスカパー!)という番組でした。
しかし、父とは11歳で別れて以来、15年間も音信不通の状態。僕が高校2年の時に引退しているので、日本将棋連盟に問い合わせても居所が分かりませんでした。収入が途絶えてホームレスになっていてもおかしくないと思っていたので、元気に生きているかどうかだけでも知りたかった。
番組制作のスタッフの方が、将棋関係者やリサーチ会社などさまざまなつてに情報を呼び掛けたところ、出身地の熱海市にいることが判明しました。地元の観光協会に電話したら「熱海で将棋のイベントをやっている人がいるので電話を代わりますね」って、ほんの10秒ほどで見つかったそうです(笑)。
その方は、日本将棋連盟熱海支部支部長の原芳久さんでした。原さんは地元でピザ屋さんを経営されていて、父とは50年来のお付き合いだそうです。離婚後に故郷の熱海に戻った父に師範になってもらって、将棋教室を開いているということでした。
父の居所は判明しましたが、本当に番組に出演してくれるのか不安でした。スタッフの方の話では「もう一生会うことがないと諦めていたので、ぜひ会いたい」と喜んでいたそうです。
最初で最後の真剣勝負
番組のコーナーは『実録 元棋士と15年ぶりの再会 本音でぶつかる親子将棋』と題して、父と将棋を指しながらお互いの身の上話をするという構成に決定。原さんには、将棋の解説役で出演していただきました。
本番の収録の日――。僕たち親子のために、和室の対局場が用意され、タイトル戦の挑戦者さながらに将棋盤の前に正座して待つ僕の元に、背広にネクタイ姿の父が緊張した面持ちで入ってきました。15年ぶりに見た父は、この時69歳。すっかり白髪頭になっていました。
「ああ~立派になっちゃったねえ」と笑顔で言いながら上座に座る父。手土産に、「ひふみん」の相性でお茶の間の人気者だった加藤一二三九段の扇子を持参してきてくれて、開いて見ると〈生涯現役〉と書かれていました。
「(お父さんは)現役じゃなくなったけど」と、僕は精いっぱいのツッコミで緊張をほぐそうとしたのですが、「えっ、何?」と二度も聞き返されてしまい空振り。耳まで遠くなっちゃったんだなと思いました。
当時の僕の実力はアマチュア初段でしたが、手合いは六枚落ち。父と唯一記憶にあるのが六枚落ちだったので、再戦を申し込んだのです。
「お願いします」と一礼して対局が始まりました。ピシッと駒音をたてて角道を開ける僕の手を見て「おお~、うまいね手つきが」とビックリした顔で褒めてくれましたが、父のほうは逆にどこかぎこちなく、心なしか指先が震えていたように見えました。
『田村淳の地上波ではダメ!絶対!』(©BSスカパー!)放送時の様子(2018年10月4日放送)
さっそく質問を投げかけます。
息子「(別れてから今まで)会ってない期間、何してたの?」
父「いやあ地獄にいました。貧乏暇なしというけど、僕は貧乏暇だらけだったからね。何もすることがなくて・・・・・・」
一日中テレビを見て、1時間ほど散歩して、帰宅したらまたテレビを見てとそんな毎日だったようです。仕事は、原さんの教室の指導で月収10万円で細々と生活しているとのことでした。
さらに僕は、いちばん聞きたかった質問をぶつけました。
息子「ギャンブルは?」
父「今は、月1回ぐらい。(近くに伊東競輪場があるので)もうそれが楽しみで」
息子は「借金は?」
父「ないです、ないです。もう全部返しました」
なぜ敬語で返してくるのか不思議ですが、ギャンブルは相変わらずながら借金なく生活していることがわかってホッとしました。
今度は父のほうから逆に質問がきました。
父「お笑い芸人には、いつ頃なろうって決めたの?」
息子「離婚する前から」
父「そうだったの。全く気がつかなかった」
15年間も家族に会いに来なかった理由については、何度も会いに行こうとしたけれど、嫌な顔をされるのがつらくて勇気が出なかったと言いました。
息子「今日、(番組で)会うってなってどう思った?」
父「それは嬉しかったですよ。1週間ぐらい前にテレビ局の方から電話があって、2つ返事でOKを出しました」
母が恨み言のように話していた、結婚の挨拶に行ったときに母のお義父さんにパチンコ代を無心した話については、動揺はしつつも「いくらなんでもそんなことはしません。一切言いません!」と全力で否定してくれたのは、何となくホッとしました。
会話が続いている間も、指し手は進行していました。矢倉囲いに玉を固めて攻める僕に「しかしホントに強いね、こんな手合いじゃ、間違いなく負けそうです」と感心する父。しかし、引退したとはいえ勝負師の本能に火が付いたのか、じょじょに本気モードになってきました。
下手の攻めをノラリクラリとかわしながら玉を単騎で逃げ出してきて、あれよという間に僕の陣地に侵入。入玉は慣れていないので、攻めあぐねている間にと金を3枚も作られてしまいました。あとで聞いた原さんの解説では、すでに下手が勝てない戦況だったようです。
僕は、このままだと勝負が終わらず、番組として成りたたないんじゃないかとだんだん不安になってきて"お父さん、空気を読んでよ"と心の中で叫んでいました。
でも、父はさすがに棋士でした。僕が分からないようにうまく攻めを誘導して、最後に上手玉の詰み筋を作ってくれたのです。僕が玉のお尻からトドメの金を打ったところで、父は「負けました」と投了しました。淳さんと原さんは「出た! 父の忖度」と笑っていましたが、プロの技術で番組が盛り上がって終われるよう、息子に花を持たせてくれた父に、初めて棋士としての尊敬の念を抱くと同時に、やっぱり父親なんだなと泣けてきました。
お互いの連絡先を交換し、最後にハグをして番組が終了しました。
15年ぶりに再会して和解が叶い、抱き合う常夫・史夫父子(『田村淳の地上波ではダメ!絶対!』<©BSスカパー!>))
父の死
父とは、それからも電話やメールで連絡を取り合っていました。父が東京に来た時には、千駄ヶ谷の喫茶店で会い、近況を報告しました。自宅で地元の子どもたちに将棋を教えているんだと嬉しそうでした。
和解がきっかけで、僕は父への尊敬と将棋への興味が再燃してきて、将棋ウォーズで腕を磨き始めました。また、先輩のランパンプスの寺内ゆうきさんに誘われて「よしもと芸人関東将棋ブ」を結成。桐生ザベストさん、ベストパフォーマンス・ハタさんら、何人かの将棋大好き芸人が集まって、社会人団体リーグや職団戦などに出場するようになりました。部員も増えてきて盛り上がってきたので、YouTubeで『よしもと将棋芸人 と金チャンネル』を立ち上げました。
僕の携帯に父の危篤の知らせが届いたのは、そんな2022年5月のことでした。実は、父は番組出演後に再婚していて、新しい奥さんが「もう危ないから、お見舞いに来てください」と気を使ってお電話をくださったのです。年齢と、タバコなど長年の不摂生がたたって倒れて、意識不明とのことでした。
入院先の病院に問い合わせたところ、コロナ禍のため直接の面会はできないといわれました。でも、特別の計らいで電話越しに声をかける許可をいただき、看護士の方に父の耳元に奥さんの携帯を当てがっていただいて「会話ができるぐらいに快復したら、また電話しようね」と語りかけました。すると、父の表情に少し反応があって、話は理解しているみたいだと様子を教えてくれました。
父は、それから2日後に亡くなりました。
再会から2年間のわずかな期間でしたが、昔のような親子の関係に戻れたし、棋士としての尊敬の気持ちが持つことができたのはよかったと思っています。和解のきっかけを作ってくださった田村淳さんには感謝しかありません。
将棋に恩返しがしたい
『よしもと将棋芸人 と金チャンネル』は、棋士を始めいろんな将棋関係者の方々にインタビューしたり、大会レポートしたりと、メンバーがそれぞれ企画やアイデアを出し合い、定期的に動画を配信しています。吉本興業所属の棋士・谷合廣紀四段のサポートも得て、これまで460本を超える動画を公開し、みんな仲良く楽しみながら活動しています。
ただ、悩みなのがチャンネル登録者数。当初から目標に掲げた1万人には、3年たった現在でもまだまだ遠い状況です(現在6040人)。今年の念頭に「この1年で達成できなければ、と金チャンネルは解散」と宣言しました。でも、僕たちとしてはこれからも配信を続けていきたいので、なにとぞ皆さん、チャンネル登録をお願いします。
2024年5月に開催された日本将棋連盟創立100周年記念 第125回職域団体対抗将棋大会に出場し、E級で準優勝を果たした(写真提供・吉本興業)
僕も将棋ウォーズで腕を磨いて三段になり、ますます将棋熱が上がっています。そして、将棋の楽しさを教える資格を持ちたいと思い立ち、「日本将棋連盟公認将棋指導員」試験を受験。おかげさまで今年4月に合格通知をいただきました。
将棋指導員の証明書を手に笑顔の史夫。「よしもと将棋芸人 と金チャンネル」では、受験から合格通知が届くまでの様子が公開されている(写真提供・吉本興業)
嬉しくて、熱海の原さんにお電話で報告したら「おめでとう! 指導員になるためにはアマ三段の認定が必要だから、ずいぶん強くなったんだね~」と褒めてくださり、思わず泣きそうになりました。なぜなら、それは父の口から一番聞きたかった言葉だからです。
これからの目標は、第一はもちろん〈さわやかだいちゅき〉が人気コンビになって有名になることですが、吉本将棋芸人最強者になって将棋の普及にも挑戦し、父を支えてくださった将棋界に恩返しをしたいですね。
淳さんのオンラインサロンのメンバーの中にも「子どもが最近、将棋に興味があるみたいなんだけど教えられなくて」という方が何人かいらっしゃるんです。そういった将棋を知らない親御さんや教育者の方に指導したいと思っています。夢はお笑い界の棋道師範(笑)。
これからも、日本将棋連盟から将棋イベントに呼んでいただけるように芸を磨いて頑張りますので、応援をお願いいたします。
ポートレート撮影/田名後健吾