日本将棋の歴史(23)

総平手の新棋戦「昭和番附編成將棋」

1940年(昭和15年)8月20日付の「東京朝日新聞」(同年9月1日から「大阪朝日新聞」とともに「朝日新聞」に改題)は、駒落ち戦も多かった当時としては画期的な総平手の公式棋戦"昭和番附編成將棋"の社告を掲載しました。

【画期的な総平手戦】

当時は現在と異なり、段位によって平手ではなく、駒落ちで対局する、いわゆる"段割り制"が用いられ、対局していました。 ところが、この新棋戦は総平手制が採用されました。とりわけ八段の権威が絶大だった時代に、大駒落ちだった八段と四段との対局が、平手で行われるという画期的な企画でした。 この企画の発案者だった加藤治郎六段(のち名誉九段)は、のちに『[証言]将棋昭和史』(執筆者・田辺忠幸。毎日コミュニケーションズ=現・マイナビ出版=刊)のなかで、こう振り返っています。 「名人戦が出来たために、ほかの新聞社がみんな困っちゃったんですよ。名人戦に匹敵する棋戦がなかなかないんで。いろいろ工夫して、いろんな催しを作ったんだけどね。大成会幹事、今の連盟理事に選ばれた僕としては、プロ棋界の近代化、合理化を進めてレベルアップを図るのが使命と思い、長考した末、大相撲の番付からヒントを得て、成績によって地位が上下する『番付戦』というのを考えついたんです」 「昭和番附編成將棋」の社告=「東京朝日新聞」1940年8月20日付
「昭和番附編成將棋」の社告=「東京朝日新聞」1940年8月20日付
「番付戦は一つの革命みたいなものです。全部平手戦なんですからね。八段は神様みたいなもので、七段以下が八段に対して平手で戦うなんて無礼であるっていうような時代でしたから。とにかく、八段の権力というのか、威力というのか、すごかったんです。八段のいる部屋にはちょっと入っていけないような雰囲気でしたね。各新聞社も、われわれも、八段連中は絶対の強さを持った人だと思い込んじゃっていた」 「棋士の中で反対はありましたよ、やっぱり。上の方、八段連中はね、弱いのが分かっていたんじゃなくて、力が落ちているっていうことは自分たちも知らなかったらしい。八段に上がったらもう落ちないんだからね。それが番付戦だと、一歩間違うと八段でも幕尻とかに落ちる恐れが出てきた」 総平手の番附戦が戦後の順位戦につながっていくことになります。

【最初の番附と主な規約】

最初の番付(別表参照)では、正横綱(東)は木村義雄名人ただ一人で、大関以下は古参の八段から順に並んだ。東の正大関・土居市太郎八段、西の正大関・金易二郎八段、東の張出大関・花田長太郎八段、東の関脇・金子金五郎八段、西の関脇・神田辰之助八段、東の小結・萩原淳八段、西の小結・齋藤銀次郎八段でした。

主な規約は次の通りです。
東西総当たり、総平手戦とする
毎月一定の期間中に各段一斉に対局する
組み合わせは各棋士の星数を参酌して作成のうえ、毎月発表する
勝ち負けの数は、番附の地位の上下に響くだけでなく、給与金の増減に直接関係する
不戦勝・敗制を設けて厳重にこれを行う
番附は六カ月後に編成替えを行い、次の場所へ移る準備期間を利して優秀者選抜棋戦を行う
大関で二場所勝ち越した時は張出横綱に据えて特別の待遇を与える
千日手は翌日直ちに指し直し、再度発生の場合には引き分けとして双方半星を与える
持将棋も双方半星とする

第1回朝日番附戦勝負表=「将棋世界」1941年4月号

【第一期の優勝者】

第一期戦は1940年(昭和15年)8月から翌年1月まで38人の棋士により各6局行われ、東前頭十六枚目(幕尻)の松田茂行四段(のち茂役九段)が6戦全勝で優勝しました。2位は5勝1敗の好成績だった木村名人、花田八段、長谷川清二郎五段、和田庄兵衛四段の4人でした。 1941年(昭和16年)5月4日、番附が新しくなり、東の正横綱は不動の木村名人で、東の正大関・土居八段、西の正大関・花田八段、西の張出大関・神田八段、東の関脇・金子八段、西の関脇・塚田正夫八段、東の小結・萩原淳八段、西の小結・金八段になりました。

【第二期の優勝者】

第二期戦は同年11月に終了しました。 第1位は木村名人、梶一郎七段、松田茂行五段、北楯修哉、藤川義夫両四段の5勝1敗でした。前期優勝の松田六段は、東の前頭十六枚目から一気に西の前頭四枚目まで進出していました。

朝日将棋番附戦第二期戦成績表=「将棋世界」1941年12月号朝日将棋番附戦第二期戦成績表=「将棋世界」1941年12月号

【第三期までの通算成績】

翌1942年(昭和17年)春から第三期戦は始まりました。しかし、前年の1941年12月8日に太平洋戦争が勃発、各新聞社は減ページを余儀なくされます。戦況報道と銃後の活動報告などで、ますます紙面が足らなくなり、朝日新聞は1942年3月1日付で、次のように将棋欄の休載を報じました。 《社告 圍碁、將棋とも紙面の都合によりこの回を以て當分休載することに致します。》以後、一部は「週刊朝日」に転載されます。

第三期朝日番附戦勝負表=「将棋世界」1943年10月号第三期朝日番附戦勝負表=「将棋世界」1943年10月号

【西の正横綱・加藤治郎七段】

朝日新聞は同年9月8日付で、「番附將棋總勘定」と題して創設以来、2年3場所の通算成績を発表しました。総参加者は40人。 第1位は木村名人の14勝4敗、第2位は加藤治郎七段と長谷川清二郎六段の12勝5敗1持将棋でした。 これに基づく同年9月の第四回番附では、西の正大関に加藤七段が昇り、東の正大関・花田八段、東の張出大関・神田八段との三つどもえ戦で張出横綱を選出することになります。 初めは1勝1敗の三すくみになり、さらに三つどもえ戦を行ったところ、加藤七段が2勝して優勝しました。 また、東の正横綱の木村名人に対して1勝もできないようでは、ということで木村名人―加藤七段の三番勝負が行われ、加藤七段が2敗後に1勝した結果、西の正横綱に栄進しました。戦型は全局横歩取りの超急戦で、3局目は加藤七段が四段のときに考案した▲6八桂が勝因になりました。 この戦型について、加藤はこう振り返っています。(前掲『[証言]将棋昭和史』から) 「無敵横綱の木村先生に三局も続けて胸を借りるなんて、めったにないチャンスですからね。勉強のためにいろんな将棋を教わりたいと思っていたのに、同じ将棋になってしまった。僕は昭和十年、四段のときに、市川(一郎)四段(のち八段)との将棋で、(A図の)△5七桂に対し、▲5八金左△5六飛▲6八桂(B図)と指して勝った。▲6八桂は僕が考案した最善の手なんです。それなのに木村名人とやったときは一局目、二局目とも別な手を指しちゃったんです」 「一局目は△5七桂に対し▲6八金と指し、二局目は▲5八金左△5六飛に▲4八銀と指して負けた。▲6八桂は四段のとき発明した手で、今はもう七段になってるんだから、もっといい手を発見してやろうと思って、無理やり違う手を考えた。不思議なもんだねえ、違う手を読んでると、それに愛着を覚えるのね。なんとかして無理だけど成立させてやろうと思って勝手な読みばかりするようになっちゃう。三局目にはちゅうちょなくその▲6八桂をやって勝ち、西の正横綱を許されました」 全局超急戦になった理由についても語っています。 「その当時、持久戦はハヤリませんでした。将棋には世相がそのまま反映しますからね。戦争が激しくなってきてはゆっくりした将棋は指せません。終戦直後もそうでしたよ。早くどこかで食料を見つけなきゃいけない。あそこにイモがあるとか、何があるとか耳に入ると、早くありつこうっていうんで将棋どころじゃない。そういう世相のときには持久戦はハヤリません。どうしても急戦になってしまう」

△5七桂まで ▼6八桂まで

【最終の第四期戦は松下六段が優勝】

1943年(昭和18年)春の第四期番附では東西に横綱が並び、44人が名前を連ねました。従来の対戦各6局から各10局に増やして行われることになりました。 東の正横綱・木村名人、西の正横綱・加藤七段、東の正大関・花田八段、西の張出大関・神田八段(病気で全休)、東の関脇・塚田八段、西の関脇・坂口允彦八段、東の張出関脇・土居八段、東の小結・金子八段、西の小結・梶一郎八段、西の張出小結・松田茂行六段(応召中)という顔触れでした。 この番附で行われた第四期戦では、前頭四枚目の松下力六段(のち九段)が9勝1敗で優勝しました。続く8勝2敗の好成績者は木村名人と中村熊治四段(この棋戦の活躍により五段昇段)。この後すぐに中村五段は南方に永住するため、将棋大成会を退会しました。土居市太郎八段門下。1932年(昭和7年)四段昇段。 注目された新横綱の加藤七段は5勝5敗の指し分けでした。 1942年(昭和17年)3月1日付で「将棋欄休載」を報じた朝日新聞は、同年10月から12月にかけて一部復活しましたが、翌年から番附戦は「週刊朝日」で掲載されるようになりました。各回、1ページに1局を2回に分けて連載しましたが、結局、1944年(昭和19年)1月16日号で番附戦の掲載を終えました。

第四期朝日番附戦勝負表=「将棋世界」1943年12月号第四期朝日番附戦勝負表=「将棋世界」1943年12月号 A図は▲2一飛まで

【関西でも番付戦誕生】

"昭和番附編成將棋"は原則的に東京方の棋士のみで行われていましたが、関西の棋士からも要望があり実現することになりました。1943年(昭和18年)春から8月まで、神田八段、大野源一八段を東西の大関とし、特別参加の木村名人、松下六段を含む18人が参加して行われました(10戦して8勝すれば昇段する規定)。 結局、升田幸三六段(のち実力制第四代名人)が8勝2敗で優勝しました。七段昇進を決めた升田六段は、10戦目の木村名人に勝てば審議のうえ、二段跳びで八段に昇段する予定でしたが、逆転負けで2敗目を喫して八段にはなれなかったのです。 本局は8月20日に大阪市北区にある関西棋界の後援者宅「中村良太郎邸」で行われました。先手の升田六段が当時ハメ手と同じように思われていた石田流を目指して早々に▲7五歩と突くと、木村名人が居玉のまま右金を繰り出す激しい戦いになります。 優勢に進めていた升田六段でしたが、A図の▲2一飛が手拍子。△2二角打で指し切ってしまいます。この手では▲6三歩成△同銀▲4一飛が正解だった、とのちに自戦解説しています。 升田六段(のち実力制第四代名人)の述懐から。(『升田幸三自伝名人に香車を引いた男』〈升田幸三著・田村龍騎兵筆録・朝日新聞社刊〉) 《気のゆるみから読みに正確さを欠き、2一飛と致命の失着を出した。予期せぬ2二角打ちに、アッといったが、手遅れだった。以後の着手は、ねばったというより、やり場のない闘志に体がほてり、ただ指してみたにすぎません。無念さのあまり投了の時機を失い、詰まされるまで指すという醜態を演じておる。二十五歳の若さが、参りましたと、よういわせんかったんでしょう。》 「将棋世界」1943年10月号では、「惜しや大魚を逸す 名人に肉薄した升田六段 最高潮の関西朝日番附戦」という見出しで、木村名人対升田六段戦を次のように論じています。(原文のママ) 《序盤、何と七筋飛車による不敵な戰ひ振りを見せ名人の一失に乘じ是れをよく咎めて一手勝ちを確保したのは流石に升田六段の實力を遺憾なく發輝した中盤戰であつた。惜しい哉一手の緩手に心身動搖し寄せの手順前後は惜しくも呑舟の大魚を逸し木村名人をして常勝の名を揚げらせた。 勝敗は別として依然たる升田六段の凄味、村正の切れ味をさへ思はすものがある。木村名人に迫る日がいよいよ近づいて來たようだ》

関西本部朝日番附戰の成績表は次の通りです(「将棋世界」1944年1月号掲載)。
関西本部朝日番附大棋戦の勝敗表=「将棋世界」1944年1月号(西) 関西本部朝日番附大棋戦の勝敗表=「将棋世界」1944年1月号(東)