日本将棋の歴史(19)

機関誌「将棋世界」の創刊

【博文館発行の「將棋世界」】

 大同団結した棋士団体・将棋大成会は、1937年(昭和12年)に機関誌「将棋世界」(発行所・博文館)10月号を創刊しました。(A5判・132ページ・70銭)

「将棋世界」創刊号(1937年12月号・博文館刊)
「将棋世界」創刊号(1937年12月号・博文館刊)
大橋進一博文館社長=「将棋世界」1941年(昭和16年)6月号掲載
大橋進一博文館社長=「将棋世界」1941年
(昭和16年)6月号掲載

 発行所になった博文館は1887年(明治20年)創業の出版社で、「太陽」「少年世界」「文藝倶楽部」などの大衆向け雑誌を創刊。制作から販売までを掌握する総合出版社として1930年代には「博文館王国」を築き上げました。
 もともと愛棋家だった博文館の大橋進一社長が、木村義雄幹事長らと相談して「将棋世界」を創刊したのです。その間の事情を大橋社長が簡潔に述べていますので、ご紹介します(「将棋世界」1938年〈昭和13年〉1月号の「名人戰大座談會」から。原文のママ)
《『將棋世界』を發行するときに將棋大成會といろいろ交渉がありまして、將棋大成會の基礎が確立して、雜誌発行を自營する場合には、この雜誌の發行權はお返しする。たゞその賠償として博文館は廣告とか販賣とか、營業の方面を擔任させて戴くといふことを、ちゃんと木村幹事長始め、皆さんに約束してあるのです。この意味に於て将棋大成會――の健全な御發展をお祈りする譯です。それから今度、將棋ファン連盟を組織したのです。これは大成會とも御交渉申上げて拵へたのです。》

「將棋世界」創刊号目次
「將棋世界」創刊号目次

「創刊の辭」は次の通りです(1937年10月号・原文のママ)
《堂々千年の歷史を有する我が國の將棋道は、現代にいたつて大衆の趣味生活には必須缺くべからざる要素となりました。
 而も惟(おもんみ)れば、當今我が國は内外共に多端なる時期に際會しつゝありますが、將棋道本來の使命は王道用兵の象徴であり、延いては精神鍛錬の小道場でもあります。洵に現下非常時に處する絶好の資と云はねばなりませぬ。
 吾博文館は斯道唯一無二の權威將棋大成會の公認の下に、最も正しき將棋道の眞隨を研究體得すべき雜誌をこゝに創刊し得た事を、全國の愛棋家諸君と共に慶ぶ機會を得ました。願はくば、絶大なる御後援を賜はらん事を。》
この「將棋世界」は以後1940年(昭和15年)9月号まで、通巻36号まで発行しましたが、いったん休刊になりました。

【将棋大成會発行の「将棋世界」】

 3カ月後、将棋大成会が発行所になって「将棋世界」は復刊します(12月号)。A5判・100ページ・50銭でした。博文館は発売元になりました。

将棋大成会発行の復刊した「将棋世界」1940年12月号。表紙は洋画家・梅原龍三郎の虎の絵=国立国会図書館所蔵
将棋大成会発行の復刊した「将棋世界」1940年12月号。表紙は洋画家・梅原龍三郎の虎の絵=国立国会図書館所蔵

 本誌を「魂の道場」「心の道場」と謳った「發刊の辭」は次の通りです(原文のママ)

發刊の辭
 私共將棋に携はる者の念願とするところは一人でも多くの人に將棋を識つて頂きたいといふ事であります。將棋は勝敗を争ふ遊戯でありますが、勝敗を超え、遊戯を超えたるところに又一つ大きな將棋道が厳存します。
 單に盤上の技術のみならず、技術に伴ふ棋士の心理、思想、さういふものを世の人に識つて頂きたい。私共は將棋を一つの藝道なりとします。この奥深き藝道の扉を開き、その眞の姿を世に傳へるのが、私共の使命と信じます。
 この意味に於て「将棋世界」は私共の魂の道場であります。魂の記録を書き誌す場所であります。盤上の將棋のみならず棋士の「將棋する心」を世に傳へたいのであります。斯くすることによつて、鑑賞の領域は更に擴げられ、私共の職能奉仕は一層强調されるでありませう。
將棋道に専念する者は、將棋することを修業すると同時に、將棋する心の修業を深く省察せねばならぬと存じます。この心の道場と思ふのが私共の雜誌であります。こゝに私共が雜誌を発行するに至りました重大な意義があり、その使命を果すべき欣びと勵みを痛感する次第であります。
 幾久しき御指導と御愛讀とをお願ひ致します。

   昭和十五年十一月菊佳節
將棋大成會 》 
 しかし、戦争激化のために「将棋世界」は1945年(昭和20年)1月号で休刊になりました。