日本将棋の歴史(22)

「神田君、時間だよ!」 木村―神田の第3期名人戦

1942年(昭和17年)、第3期名人戦七番勝負(東京日日新聞・大阪毎日新聞主催)は木村義雄名人に対して"関西の闘将"神田辰之助八段が挑戦します。互いに病に苦しみながら熱戦を繰り広げ、結局木村が4-0で防衛します。

第3期名人戦の挑戦者決定を伝える「将棋世界」=1942年(昭和17年)7月号
第3期名人戦の挑戦者決定を伝える「将棋世界」=1942年(昭和17年)7月号
七番勝負の日程は次の通り。持ち時間は各15時間。
▼第1局 7月11~13日 東京市文京区小石川
「将棋大成會」
相居飛車 164手 観戦記
樋口金信
▼第2局 7月21~23日 大阪府三島郡
「水無瀬神宮」
相居飛車 87手 観戦記
樋口金信
▼第3局 7月31日~8月2日 東京市小石川
「将棋大成會」
相居飛車 126手 観戦記
樋口金信
▼第4局 8月22~24日 東京市小石川
「将棋大成會」
角換わり相腰掛け銀 121手 観戦記
樋口金信

戦時中のため、地方での対局は控えることになりました。

【「準名人」の呼称】

この第3期名人戦の規約「名人戰に於ける挑戰者にして、時の名人に全敗せざるもの」、つまり七番勝負で1勝を挙げれば「準名人」を名乗って八段の上位に座ることになります。
この制度を創設したことにより、江戸時代から八段のことを準名人とする呼称は廃棄されることになりました。 ただし、神田八段が初戦から4連敗したため、準名人を名乗ることはありませんでした。

挑戦試合奉告祭式典は第3期名人戦第1局の前日の1942年(昭和17年)7月10日、小石川の大成会本部で挙行された。その行事のなかで「振り駒の儀」も行われ、関根金次郎十三世名人(写真中央)が振り駒をして、神田八段(左)の先手が決まった=『写真でつづる将棋昭和史』(毎日コミュニケーションズ=現・マイナビ出版=刊から)
挑戦試合奉告祭式典は第3期名人戦第1局の前日の1942年(昭和17年)7月10日、小石川の大成会本部で挙行された。その行事のなかで「振り駒の儀」も行われ、関根金次郎十三世名人(写真中央)が振り駒をして、神田八段(左)の先手が決まった=『写真でつづる将棋昭和史』(毎日コミュニケーションズ=現・マイナビ出版=刊から)

【「時間だよ!」】

なかでも第1局は優勢な将棋を時間に追われてなかなか指さない神田に対し、木村が「神田君、時間だよ!」と注意したことが伝説にもなっています。
この時、慌てて指した一手が悪く、神田は好局を落としました。木村はその著書『ある勝負師の生涯 将棋一代』のなかで、こう振り返っています。
《いよいよ一分将棋となって、秒を読まれることになると、どんな棋士でも精神的の動揺をまぬがれない。勝将棋の方でも迷いが出る。これまた規定によると、五十五秒と読んで手を下さぬと負けになるのだが、神田氏はすでに五十八秒を経過した。そこで今度はやむを得ず注意したところ、さすがに心境の乱れと見えて、 その時の一手が悪かった。わたくしの方は直感で発見したのが好手で、ついに辛うじて勝つことを得たが、実にギリギリの危ういところで、後まで一つの話題になった。》

A図からの▲1一龍が敗着。▲3三銀でも、▲3一龍でも神田が良かった。
毎日新聞・樋口金信記者の観戦記から。
『「五十五秒」記録係の声に龍を握った手を震わせ躊躇した神田八段に、間髪をいれず「時間だよ」と鋭く一本極めつけた木村名人の熾烈な敵愾心。想へば1一龍は神田八段が最後の勝筋を失った憾みの一手だ』
A図からの▲1一龍が敗着。▲3三銀でも、▲3一龍でも神田が良かった。

記録係を務めた原田泰夫三段(のち九段)は、その緊迫した場面を「将棋世界」(1942年〈昭和17年〉8月号)誌上で、次のように活写しています。
《七六桂と飛んでから双方最後の決戦だ。命がけの頑張りだ。獅子と豹が嚙つこうとしてゐる樣な空氣で身體がヒヤッと寒くなる。神田八段がイエツ!パチン、セレ!ピシッ! 名人は一言もなく左指に全力をこめて駒音は高い。名人の左手が微かに震へる。神田八段はブルブル震へてゐる樣だ。私の聲も震へる。緊張の極みだ。秒を讀みませうかと聞いたが、両雄は、「いいよ」と言ふ。二分になつては秒を讀まなければいけない。 五十二秒!五十四秒!五十八秒!クソ!と叫んで神田八段は駒を叩きつける。「四十五秒、五十秒と言はれちやかなわんよ」と神田八段は閉口した樣に言ふ。名人に四一角と打たれてから神田八段はだんだんおかしくした。七八歩に六九金と逃げる樣ではもう駄目だ。名人は渇いた聲で「君こつちは詰まないんだらう。飛車打つておけばしようがないだらう」と言ひながら神田八段の樣子を見る。しかし未だ安心しきつた聲ではない。 名人がハツシと七九飛と打つと同時に神田八段は「頭飛車で詰やないか」名人「詰まないよ」神田「エイツ」と、それには返答せず七六桂をとる。名人は慌て氣味に「金打てば詰ぢやないか君」と盤を睨むこと約三十秒、自信滿々滿身の力をこめて八八金と左手で打つ。神田八段は泣いても泣ききれんと言ふ樣子で「負けや」と言つて惜しくも駒を投げる。時に午後12時。
局後の風景
それからすぐ感想戦に移る。
名人は「僕は馬鹿だよ、千日手だとは思はんが、もめるといかんと思つて」と大きい聲を出す。神田八段は口惜しくてたまらんと言ふ風に「玉よつてからは何やつても勝ちやつた」と實に殘念らしい。――未だ興奮した空氣だ。名人は「僕がこうやる手だつたんだ」神田八段「それはこうやる」と讓らない。普通の人は名人にかゝると試合で負て感想では尚ひどく負るが、神田八段はそうはいかない樣だつた。名人は約一時間して浴衣を着かえに階下へ下りて來て感心した樣に「神田君は强いなア、確實だからな」としんみりして言つた。名人は三時頃床に入つた。神田八段は研究好きの富澤二段を相手にしている。富澤二段も眠くなつたのか寝室へ行く。しかしまだ神田八段は盤から離れようとしない。終盤必勝だつた局面を何回も何回も並べ直してパチパチやつてゐる。夜が明けた。二階ではまだ神田八段の駒音が高く響いてゐる。》
現在のように無言で対局する、というより、この当時は言葉でも丁々発止のやり取りがありました。

【互いに病む】

このシリーズでは、互いに病気で体調が悪く、そのなかでのまさに"死闘"ともいうべき戦いでした。 のちに木村は次のように語っています。(「週刊将棋」1984年〈昭和59年〉10月10日号"連載インタビュー 木村十四世名人に聞く⑥"から)
●病人同士の対決
このとき、私は歯が悪くてね。口内炎になって、入院するようになった。東京の赤羽(注......芝の赤羽橋)にあった「済世会」という病院でしたよ。
私のおやじが心配してね、「お前、今度はなかなか強敵じゃないか、神田さんだってね。お前の体がそれじゃあ......」って言う。「お父さん、私だって頑張ります。医者もちゃんと知ってるから対局に差し支えるようなことはないと思います。けれども、相手が神田君だから今度はわかりませんよ」と。おやじはそういうところに割合と理解があった。「そんなことお前......。しかたないや、体の調子はだれにだってあるんだから」と言ってた。
いよいよ第一局を連盟でやることになった。前の連盟で、東京・小石川小日向台町の将棋大成会だったね。
そこへ行って、盤の前に座って待ってたら、神田君が来たんですよ。見たらいやにやせちゃってるんだよ。「何だ」って聞いたら、神田君も「病気(肺病)したんだ」と言うんですよ。
わからんもんだねえ、こっちは歯が悪くて、敗血症になりそうだから"今度はもう駄目だろう"とある程度覚悟してたんだ。
ところが、神田君も憔悴(しょうすい)してるんだ。"これならお互い様だ、これなら戦える"と、そういう気が起こったんですよ。けれども、お互いの体がそういう状態だから、将棋だって"どっかで崩れるんじゃないかな"という気もしてたんですよ。
それだけに力が入ったんだ。神田氏も良く指してるよ。
この体で、二人合わせて三十時間の将棋、ことに夏の暑さに耐えられるか、ということを私は随分心配したんですよ。》
第1局開始前、神田八段の夫人も病が篤く、当時の「将棋世界」(1942年〈昭和17年〉8月号)に"夫人の病を秘す"という記事が掲載されています。
《神田八段は七月五日以來、藤井寺の自邸を出て直ぐ上京する準備を進めて少しも歸宅しない。秘してゐる事實は夫人が重態で入院させたが、病状を考へて名人戦に影響を來してはの懸念から一切、對局終了まで報告無用を堅く申渡しての上京であつた。家庭内の不幸は何處までも神田八段の身邊を離れぬのは洵にお氣の毒な次第といはねばならぬ。》 ※文中の「家庭内の不幸」とは、神田八段の令息が戦死したことも指す。

【神田八段の勝負師魂】

第2局以降の勝負について、木村は続けてこう語っています。
《神田君は負けたから、がっかりしちゃって、後は続かないんじゃないかと私は想像していたが――。それなのに、一局目より二局目の方がむしろ良く指してきた。ああいうところが、勝負師として私は尊敬するねえ。
結局、連敗後、精神的な打撃を受けて私に三、四局目も押し切られたんだろうね。
●「汽車から飛び降りたかった」
神田氏はこの勝負に負けて、翌年に死んじゃったんだねえ、結局は。
これはもう言ってもいいんだろうと思うけれども、まだ床に就く前だと思うんだが私に言ったよ。
「木村さんに四番棒に負かされたのは、とにかく痛手だった。私は帰りに特急の汽車から飛び降りて死にたかった。一番も勝てずに負かされたのはいまだかつてないことです。こういう経験はとてもたまったもんじゃなかった」と正直に言ってました。》
1942年(昭和17年)9月9日、木村名人の第3期名人就位式は赤坂の山王日枝神社で執り行われました。

【神田辰之助九段の略歴】

1893年(明治26年)2月22日、兵庫県武庫郡本庄村字深江(現・神戸市東灘区の一部)に神田庄太郎の三男として生まれる。木見金治郎五段(のち九段)の指導を受けて数えの21歳で初段、23歳で五段まで昇段したが、生活のため郵便配達、浪曲師などをして棋界を離れる。1923年(大正12年)春、棋界に復帰して六段昇段。1929年(昭和4年)8月七段。1933年〈昭和8年〉、大阪朝日新聞専属の棋士団体「十一日会」が結成され、事実上の盟主になる。1935年(昭和10年)11月21日、八段昇段。 この昇段を巡り日本将棋連盟が分裂する、いわゆる"神田事件"が起きる。1936年(昭和11年)7月、将棋大成会関西支部の支部長になる。1941年(昭和16年)4月、将棋大成会関西支部が関西本部に昇格、幹事長になる。1942年(昭和17年)7月、第3期名人戦挑戦者になったが、木村名人に4連敗する。1943年(昭和18年)9月6日逝去。享年50。1964年(昭和39年)11月3日付で九段を追贈された。弟子に野村慶虎七段、畝美与吉七段、岡崎史明八段、松浦卓造八段、松田辰雄八段、灘蓮照九段がいる。灘の弟子には辰之助の次男・鎮雄七段がいる。著書に『昇段熱血棋集』(朝日新聞社刊)がある。