日本将棋の歴史(21)

52歳の土居、13連勝で名人挑戦者に

木村義雄名人への挑戦者を決める「第二期名人決定棋戦」は、金易二郎八段―萩原淳八段(勝ち)戦を皮切りに、主催紙の東京日日新聞・大阪毎日新聞(1943年〈昭和18年〉1月1日、東京日日新聞と大阪毎日新聞は新聞統制により題字を『毎日新聞』に統一)に1938年(昭和13年)5月15日付から連載されました。

第二期名人決定棋戦を報じる東京日日新聞社・大阪毎日新聞社社告。1938年(昭和13年)3月21日付
1938年(昭和13年)3月21日付 東京日日新聞社・大阪毎日新聞社社告

参加棋士は八段七人と七段リーグの優勝者である渡辺東一七段、そして"名人"の称号を返上した阪田三吉の合計9人。約2年にわたって行われたリーグ戦は、満52歳の土居市太郎八段が13連勝で優勝し、挑戦権を獲得しました。なお、第一期は、他紙の棋戦の成績も加味したのですが、この期からは「名人決定棋戦(名人リーグ)」の成績のみで挑戦者を決める制度になりました。

土居以外の参加棋士の順位は次の通り。
萩原淳八段
神田辰之助八段
阪田三吉
金子金五郎八段
斎藤銀次郎八段
渡辺東一七段
金易二郎八段
花田長太郎八段

【木村の初防衛】

第2期名人戦第1局の「指初式」。1940年(昭和15年)4月28日、東京市麹町区一番町(現・東京都千代田区一番町)「将棋大成会本部」
第2期名人戦第1局の「指初式」。左から土居八段、振り駒をする関根十三世名人、木村名人、観戦記を執筆した作家の里見弴=1940年(昭和15年)4月28日、東京市麹町区一番町(現・東京都千代田区一番町)「将棋大成会本部」で

木村―土居の七番勝負は、1940年(昭和15年)4月28日から始まり、結局、木村が4勝1敗(2千日手)の成績で初防衛に成功しました。持ち時間は各15時間。その経過は次の通り。

木村名人 ○○千千●○○ 防衛
土居八段 ●●千千○●●  
▼第1局 4月28日
5月1~3日
東京市麴町区一番町
「将棋大成會」
相居飛車 154手 観戦記
里見弴
佐々木茂索
▼第2局 5月11~13日 兵庫県宝塚市
「宝塚松涼庵」
相矢倉模様 137手 観戦記
瀧井孝作
▼第3局 5月21、22日 福岡県武蔵温泉
「延寿館」
相掛かり 55手
千日手
観戦記
倉島竹二郎
指し直し 6月3、4日 「将棋大成會」 相掛かり 66手
千日手
観戦記
倉島竹二郎
指し直し 6月25~27日 北海道札幌市定山渓温泉
「定山園ホテル」
相矢倉模様 145手 観戦記
豊田三郎
▼第4局 7月11~13日 「将棋大成會」 相掛かり模様 115手 観戦記
倉島竹二郎
▼第5局 7月23~25日 「将棋大成會」 相居飛車 120手 観戦記
菊池寛
倉島竹二郎

【土居八段の述懐】

土居八段が木村名人の対局姿勢に強い印象を受けたのは同年 5月11、12日に行われた第2局で、"名人戰所感"(「改造」1940年〈昭和15年〉9月号)に書き残しています。

寶塚の戰ひ
◇......第二回戰は、五月十一日より寶塚溫泉、松涼庵で行はれた。(略)
冷靜の時には誰れしも失敗などしないが、局面が追々と接戰に なつてくると、兎角夢中になり勝ちで私の癖は直らない。またも中盤戰において、敵の桂跳ねを看過し五三歩打の疵を求めて形勢一變の憂目をみてしまつた。この對局中、私は二つの感動を受けたのである。 一は、關西の某校の敎員が遠足に寶塚に來た際、圖らずも松涼庵の門前を通り......あゝこゝで名人戰が行はれてゐる......と思はず知らず生徒と共に立ち上つて、武運長久を祈つてくれたといふ事だつた。これをアトで聞いてなんともいへない感慨に打たれた。 それと、もう一つは木村名人の熱心こめた對局態度の點であつた。私は對局中、相手の顔を見るのは好まない事だし、努めて避けてゐるが、同君が五時間餘の長考をした時は、どうしてもその態度をみずにをれなかつた。 全く將棋三昧に入つたとでもいうのか、顔面蒼白、眼は血走つてその雰圍氣に凄いものを感じた。 丁度そこへ大毎の人たちが觀戰に來たが、我關せずで人の入る気配も解らずにゐる始末だつた。あゝ、この熱心努力あればこそ、君の栄位は保たれてゐるのだと、つくづく思はれた。これは到底凡人には真似の出來ないことである。これらを見た私は、またも心境が變つて行つた。いや變ヘて行かなくてはいけないと思つたのだ。》

【定山溪の名局】

木村2連勝で迎えた第3局は千日手になり、指し直し局も千日手と、千日手が2回続きました。続く指し直し局は同年6月25日から27日までの3日間、北海道札幌市定山溪温泉「定山園別館」で行われましたが、ここでも千日手模様になり、両者とも打開に苦心を払います。結局、土居がこのシリーズ唯一の白星を挙げました。

【木村の述懐】

本局について、木村は次のように語っています。(「週刊将棋」1984年〈昭和59年〉9月26日号"連載インタビュー 木村十四世名人に聞く⑤"から)
《二番千日手になって、今度は北海道へ行くことになった。また千日手になっちゃ大変だと、あの東京日日新聞の黒崎貞治郎かだれかが「名人から電報を打ってくれ」とでも言ったんでしょ。それで「シンキイッテンシテサスベシ」という関根名人の電報が定山渓に来たんですよ。
土居さんも「これはまあそうだろうなあ」と言ってました。私も「そうだろう」と。 でもそんなこと言ったってだねえ、不本意な手を指すわけにはいかないから、とにかくなるだけ千日手をやらないように指そうというつもりでいたんですよ。(略)

●千日手打開

この一局は、将棋としては必ずしも最善と言えないけれども、ただそういう事情があってお互いに気迫で打開するんだ、という気だった。
"不本意だが、角を打たなければ、打開する方法はない"という考えで私は△7三角と打った。
土居さんもこの将棋を打開しようと思ったんでしょ。確か▲5九金と引いた手があったと思うんですよ。そういうのは一見手待ちのようだけれどもね。それは打開の一手ですよ。(略)

●不朽の名局

これは土居さんを称揚していい将棋だと思うんです。土居さんはあの年で、とにかく残り数分まで戦ったからね。土居さんみたいな早い将棋には珍しい。その意味でこれは土居さんの名局と言っていいだろうと思うんですね。
私にとってもこれは特筆大書すべき名局ですよ。途中で随分局面を打開したり、少し無理だと思う勝負手をいったり、というような決断の多い将棋としてね。(略)

●本当の勝負

土居さんがこんなに時間を使った将棋はほかにないだろう。たいていの場合、土居さんは「わしは時間はいらんよう」という調子でだね、鼻歌を歌いながら扇子をパチクリやって......。目に見えるようですがね。それがこの将棋だけは必死だったね。偉いと思ったよ。
人間は変わるもんだと思うが、やっぱり将棋なんだね。いい将棋でなければそんなに変わりゃあしないよ。それに局面が切迫していたから、懸命に打ち込んでそうなったんだろうね。 負けても、この将棋は誇っていい将棋だと私は思っている。そういう将棋がやっぱり本当の将棋じゃないかね。自分は負けたが、良く指したし、相手も実に良く指してるという将棋ね。

●関根名人のことば

関根名人が電報を打って来て、心配されてたんだなあと思い、帰ってからすぐ関根名人の家に行ったんですよ。
「先生、どうもご迷惑をかけました。でも何とか千日手にならずに指しました」と。
「木村、ああいう将棋を指して負けると、やっぱり後、指しにくい。土居は必死に狙ってくるから、しっかり指さないと、もう一番負けると怪しいぞ」と言われちゃってね。
やっぱり勝負の勘だろうね。私はそれほどには思わなかったけれど......。
関根名人も自分が引退して自分の子飼いの弟子の私が名人になってるんだから続けさせたい、という好意は随分あったんだろうね。

この将棋で私もいろんなことを学びましたよ。》

【作家・豊田三郎の観戦記】

作家の豊田三郎(長女は作家の森村桂)が両対局者の苦闘の様子を、新聞の観戦記に次のようにつづっています。
《文字通りの死闘がつゞいた。名人は最期まで、敵玉を狙つて離れなかつた。四時間近くも、時間に余裕のあつた土居八段も、たうたう数分を余すのみとなつて、一分づついふやうに記録係に命じた。ほとんどグロッキーであつたが、先手は、焦る焦燥を押へて、喰ひ下り、よく敵の急所を突いた。
つかれることを知らない木村さんも、次第に息苦しくなつた。土居氏は5三銀と打つて必死をかけ、9九を指で叩いて、詰みがないよ、詰みがないよと、こみあげる喜びをおさへて繰返した。》

【再び土居の述懐】

この時の心境を土居も"名人戰所感"(前出)のなかでで述懐しています。
《六月廿五日の對局日を目指して廿日夜東京を立ち、札幌陸軍病院へ將棋慰問、その他歡迎會などと瞬く内に對局日は迫つてしまつた。
長い旅行でもあつて私は相當に疲れを憶えたが、然し流石に定山渓は絶佳の眺望で氣になつた疲労もすつかりとれ、爽が爽がしい氣持で對局が出來たのはなによりであつた。 この戰ひは、九州、東京と持ち越してゐた指し直しの對局であつたが、既に福岡武藏温泉の時から肚は定つてゐる。あく迄焦せらず、緩まずの方針を固く守つて行つた。この調子がうまく行つたのか、漸く三局目のこの一戦をものにすることが出來たのである。二敗したアトだけに、これ迄奥底に押し付けられてゐたやうな苦惱も洗はれてしまひ、眞實に輕々となつた。また眞に元氣にもなれた。この調子を續けたいと願つたのである。(略) ◇......勝敗の數は結局五局で終つたが、その内千日手が二局で都合七度木村名人と連續的に矛を交えたのである。 この間私の對局心境は、前にも述べたやうに種々研磨しつゝ變つて行つたのであるが、これといふも木村名人の、あの眞劒の態度から示唆される所が非常に大きかつた。そして、文字通り同氏には一手といへども樂觀的の指手といふものが決してなかつた。終始一貫、努力の二字に盡きると思はれる程である。これは容易に眞似られない敬服すべき所であらう。(略) 結局、總ては信念を持つか、否かに著しい隔りを生じることを、つくづく感銘した。この七局の對戰から得た體驗は、非常に尊く、かつ大なりとひそかに感謝してゐる次第である。》

【土居の強さ】

土居が亡くなった(1973年〈昭和48年〉2月28日)直後、「将棋世界」5月号で「大天才土居先生を偲んで...」と題した座談会が掲載されます。そのなかで土居の強さについて、木村義雄十四世名人、加藤治郎八段(のち名誉九段)、観戦記者の倉島竹次郎が次のように語っています。(原文のママ)
加藤(治)土居先生は大天才でしょうね。
木村大天才。だってそれが証拠にね、第二期名人戦でぼくに挑戦してきたときは、13戦全勝ですよ。それがね加藤さん。ぼくがビックリしたのはね、この13戦13勝は土居さんの全盛期の将棋ではないんだ。いくらか棋力に衰えがみえていながら、実にアッパレだなあ、とぼくも当時思ったんだから。
加藤(治)今でこそ50歳になれば円熟の境地といわれるけれど、当時は40歳が円熟の境地だった。まるみが出て伸びがないということだったんですね。しかし土居先生が挑戦者になったのは52歳でしょう。考えてみると升田九段(のち升田幸三・実力制第四代名人)と同じくらいで挑戦者になった。升田九段に匹敵するんだ。(略)
ぼくが土居先生の天才ぶりに驚いたのは、ぼくたちが四、五段時代、新聞将棋を土居先生が解説するんですよ。こうやれば先手がいいというと、それで後手が悪くなっちゃうんだ。あくる日に、今度は悪い方に味方すると、悪い方がよくなっちゃうんだよ。なるほどという手ばかりで、こっちはそれに反発できないんだ。(略) 倉島第二期名人戦の少し前ぼくのところに坂田さん(注...阪田三吉贈名人・王将)が見えた。土居先生が13連勝して木村先生にぶつかる前なんだが、今度の名人戦の予想はどうですかときいたらね、四対一で木村さん勝つやろうというんだよ。土居さんは非常にうまい将棋だけどね、苦労がたりませんちゅうたよ。わたしはまた、土居先生の方がトシ上だから、木村先生より苦労しているのかと思うてたら......。
木村なるほど、えらいもんだね。そのとおりなんだ。土居先生は大天才だから、苦労なんてしやしないよ。自分の天分に惚れてるしね。うぬぼれがあるから、ほかの者の将棋なんかという気持があるんです。また誰もとっつけない時期があったんだ。
加藤(治)ありましたねえ。あの軽快なさばきを誰も受けとめられないもの。木村名人がでてきてようやくそれを受けとめられるようになったかもしれないけど、それまでは、みんなきれいにさばかれちゃった。》

(文中敬称略)