日本将棋の歴史(20)

木村、初の実力制名人に

 1935年(昭和10年)6月16、17日に八段同士による「名人決定特別戦」初戦の金子金五郎八段―花田長太郎八段(勝ち)戦が行われ、以後2年半に及ぶ実力名人戦の優勝争いは、木村義雄八段と花田に絞られます。両八段による名人位を決定した大一番は、1937年(昭和12年)12月5、6日、神奈川県湯河原「天野屋旅館」で行われ、木村が勝ち、第一期実力名人に輝きました。主催紙は東京日日新聞・大阪毎日新聞(1943年〈昭和18年〉1月1日付から「毎日新聞」に題字を統一)。この天野屋での大一番は、1938年(昭和13年)1月1日付から13日付まで、作家の佐々木茂索が観戦記を執筆しました。

木村八段の「名人決定大棋戦」優勝を報じる主催紙の東京日日新聞・大阪毎日新聞(現・毎日新聞)=1937年12月7日付
木村八段の「名人決定大棋戦」優勝を報じる主催紙の
東京日日新聞・大阪毎日新聞(現・毎日新聞)=1937年12月7日付

【名人選定方法と結果】

 第一期名人戦の選定方法は、名人位決定特別戦(東京日日新聞社・大阪毎日新聞社主催)と普通戦(そのほかの新聞棋戦)に分かれて行われました。
 優勝した木村は名人位決定特別戦(総平手)で13勝2敗、普通戦(香落ち戦を含む)で27勝7敗の好成績を収めました。第二位の花田は特別戦で13勝2敗と木村と同星でしたが、普通戦では12勝8敗と木村に差をつけられました(成績表参照)。
 特別戦は全八段が先後2局ずつのリーグ戦を行い、勝つと120点、負けると20点が得点になります。
 普通戦は香落ち戦を含むので、やや複雑になります。平手の場合は特別戦と同様の得点です。香落ち戦は上手が勝つと140点、下手が勝つと100点になります。上手が負けると40点、下手が負けると0点になります。持将棋の場合、指し直しはしません。平手同段の場合が70点、一段差の場合は上手60点、下手80点の得点になります。
 特別戦の採点数は平均点の5割5分を、普通戦の採点数は平均点の4割5分を乗じたもので、この合計点が各棋士の最終得点になります。本来、普通戦(主催紙以外の新聞棋戦)の成績は考慮に入れませんが、当時は名人戦が唯一無二の大棋戦でしたので、他紙に配慮しての規定でした。しかし、第二期以降は特別戦だけの成績で名人挑戦者が決まるようになりました。

歴史に燦たる名人戰の總決算

「名人決定大棋戦」参加棋士の成績を掲載した1938年3月5日付「東京日日新聞」夕刊
「名人決定大棋戦」参加棋士の成績を掲載した1938年3月5日付「東京日日新聞」夕刊

【各八段の最終得点】

特別戦と普通戦とを合わせた最終得点は次の通りです。
(1) 木村 義雄 103.7
(2) 花田長太郎 95.6
(3) 土居市太郎 76.3
(4) 神田辰之助 69.6
(5) 金子金五郎 66.0
(6) 萩原  淳 60.8
(7) 金 易二郎 54.2
(8) 木見金治郎  34.0
(9) 大崎 熊雄 20.0

 木村と花田との得点差は8.1点で、8点以下の得点差なら、あらためて両者による六番勝負を行う規定でした。ただし、3勝3敗の指し分けなら、第1位の木村が名人位に就位することになっていました。

【木村の述懐】

 花田の将棋について、木村は次のように語っています(「週刊将棋」1984年〈昭和59年〉9月12日号"連載インタビュー 木村十四世名人に聞く(4)"から)。
●第一期名人位に輝く
 神田派も入ったから、合同して将棋大成会を結成した時、実力名人戦は一段と大きくなったわけだ。
 そして、萩原と神田が名人戦に出ることになった。神田君はかなりいい成績を取った。これで朝日も面目を保ったわけだ。こっちの萩原君の成績は良くなかった。 みんなで戦ってみると、私が一番勝った。その次に花田さんが勝ったね。湯河原の天野屋で戦った決勝の将棋は、圧倒的だけどよく勝てた。 だけど強いよ、花田さんは。すごい将棋だった。大上段に振りかぶって、から竹割りを食らわすような将棋ですよ。
 花田さんの将棋は、鋭いところがあるからね。他の者はそれが受け切れないでやられてしまうけど、私にはぐっとこらえて跳ね返せるだけの力があった。》

【名人就位式】

 木村の名人就位式は、1938年2月11日の紀元節(現在の「建国記念の日」)に東京市赤坂区青山表町(現・東京都港区)の将棋大成会本部で執り行われ、同時に関根金次郎が名人退位を表明しました。木村新名人には小倉右一郎作「百獣の王」の彫刻を、第二位の花田長太郎八段には同氏作「猛虎」の像が贈られました。
 木村はその著書『ある勝負師の生涯 将棋一代』(文春文庫)の中で、実力名人に就いた喜びを次のように伝えています。

《いよいよ当日となった。紀元節は折柄の梅日和であった。
 当時の大成会は、赤坂表町時代で、関根名人と私と、先輩の金、花田両八段を始め、所属する高段の棋士、大阪からも代表者が参列してくれた。式場の設備は、準備委員会の手で行われ、式は日枝神社の宮司を聘して、質素ながら厳粛に挙げられた。
 先ず関根名人から、名人位授譲の辞があり、会員代表の宣誓文朗読、記念品の授受、詰将棋の発表等、予定によって滞りなく進行し、和気藹々の裡に式を終ると、参列者一同、明治神宮に参拝して、更に将来を誓い、将来を祈り、目出度く退散した時は、そぞろに目頭の熱くなるような気がした。
 帰って父に報告すると、口数の少い父が、にこにこしながら、『そうか、おれも鼻が高いな』といった。それだけで、言外に溢れる父の喜びは、私には充分受けることができた。》

名人就位の報告のため明治神宮に参拝。左から関根十三世名人、木村新名人、金八段、花田八段=1938年2月11日
名人就位の報告のため明治神宮に参拝。左から関根十三世名人、木村新名人、金八段、花田八段=1938年2月11日