日本将棋の歴史(18)

天龍寺の決戦 ~阪田三吉対花田長太郎戦

"南禅寺の決戦"で木村義雄八段に敗れた阪田三吉(「無段」を標榜)は、約1カ月後の1937年(昭和12年)3月22日から28日までの1週間、京都市嵯峨の天龍寺で花田長太郎八段と対局し、持ち時間各30時間のうち、残り1時間8分まで考えましたが、一手足りず敗れました。 先手花田の初手▲7六歩に対して阪田は対木村戦とは反対の端歩(△1四歩)を突き、またもや世間を驚かせました。 関西では"神様"のように偶像視されていた阪田が"天龍寺の決戦"でも敗れて2連敗したことにより、その時代は去り、将棋界は新しい時代に入ったことを世間にはっきり印象付けました。

対局開始前日の読売記事=1937年3月21日付朝刊
対局開始前日の読売記事=1937年3月21日付朝刊

【対局交渉の裏側】

 菅谷北斗星は観戦記(『菅谷北斗星選集 観戦記篇』)の中で"阪田出馬"までの裏話を次のように述べています。
《坂田氏は現在の棋界に残された唯一の謎でした。この謎を何とかして解きたいと、随分苦労しました。私が読売新聞社入社匇々ですからもう十一、十二年前になりますが、これが私の第一回対局交渉です。
 それから毎年殆んど春秋二回ずつかかさず交渉して来たのですが、坂田城は名代の難攻不落で容易に説きおとせないのです。しかし、そうなると私としてももう意地で、是が非でも屹度ものにしてみせようと思ったのです。何回目かの交渉の折に、(大阪)清交社でその頃まだ円満な仲だった神田辰之助八段が私達の話の中に立会って、遂に坂田氏が『体の恢復次第必ず指す、絶対貴方の勤めている新聞社以外の新聞では指さん』と口約したこともあったのでしたが、口約はいわゆる口約で、裏では別の新聞社がしきりに交渉を進めていると言った具合で、油断も隙もあったものではないのです。
 東京の大新聞社は殆んど全部、坂田氏に対局の交渉をしなかった社はないでしょう。そればかりでなく、坂田氏をめぐって対局交渉の虚々実々、肩すかしを喰ったり、喰わせたり、これを詳しく書いたら立派な一篇の読物になる位です。ともかく坂田氏を中心に、対局交渉の渦はもの凄く巻いていたのです。
 これは対新聞の駈け引きですが、棋界の内部にもいろいろ難しい情実があったのです。私は坂田問題の解決を出発点として、今日の新しい組織の将棋界が誕生した、とみる位で、棋界内部の問題としても非常な重大な性質を帯びていたのです。しかし、この点は対局当事者である花田八段、木村八段、それに坂田氏の同情者である金八段、萩原八段、なぞの毅然とした正しい態度で、話は非常に際どい瀬戸際までいったのですが、無事解決を見ることが出来たのです。》

阪田無段
阪田無段
花田八段
花田八段

【規定の変更】

 阪田から次の3つの要望があり、対木村八段戦とは異なる規定に変更されました。その要望は(1)1週間ずっと寺の中に籠るのは、68歳(数え)の身には苦痛なので1日ごとに宿(後援者の家村喜三郎氏宅)に引き上げたい(2)介添人として、前回は自分の娘(玉江さん)を同伴したが、今回は知人(家村氏)に頼みたい。自分だけでは不公平になるから花田八段にも介添人を付けてほしい(3)前回の記録係は、金易二郎八段の弟子二人だったが、今回、一人は私の弟子の星田啓三にしてほしい――。
 阪田の要望通り、記録係は前回に続いて山本武雄(金八段門)と星田に決まりました。花田の介添人は村上秀三郎氏、2日目からは山根憲一氏(花田の義兄)。また、「封じ手」のやり方を変更しました。前回は一日ずつ交互に封じ手を行いましたが(初日は振り駒で封じ手番を決めた)、終了時間が定まらないため、その日の終了予定時刻に手番になった方が封じることになりました。このやり方は現在のタイトル戦でも、そのまま継承されているのです。
 さらに、封じ手の封筒には対局者二人が封印することにしました。いままでは大成会でも、封じ手をした者だけが封印をしていましたが、覚書二通を作成して、互いに記念として所持することになりました。これらも阪田の提案でした。

【両者の体調】

 対局4日目に入ると互いに体調を崩してしまいます。花田は風邪気味で微熱が出ましたが、「倒れるまで頑張りますよ」と反対に北斗星を励ましたのでした。阪田も消化不良で胃腸をすっかり悪くして、「おかゆさんにしよう」と消化のいい物だけ口にしました。
 北斗星の観戦記(『菅谷北斗星選集 観戦記篇』所載)にも、その記述がいくつかあります。6日目から。
《昼食の時間となっても二人は盤側を離れず対局室にこもり、対局の姿そのまま食事を摂ることになった。坂田氏は例の如く牛乳と卵、花田氏は昨日から絶食状態で、僅かに番茶を飲むだけで済ました。(略)
 体は大丈夫だろうか! 私はそろそろ両氏の体力が心配になったので、秘かに花田氏の立会人山根氏を蔭に招いて、『大丈夫か?』と訊くと、『朝飯を喰ってるからたいがい大丈夫だろう』と言う。次ぎの間にいても両氏の『はァ、はァ』という荒い息使いが聞える。嘘ではない、実際に対局に立会った者に訊いてみるがいい、天竜寺の坊さんはびっくりしていた。》

【最終譜の観戦記】

 北斗星の観戦記、最終譜(第39譜)=1937年4月30日付=から終局直後の模様を引用します。
《8八玉と寄ったのを見て坂田氏は『これまでです』と駒を投げ、静かに頭を下げた。花田氏も『いろいろ有難うございました』と、丁寧に礼を返した。
 首をあげた坂田氏の顔は、意外にさばさばと微笑をさえ漏らしていた。『力一杯指したのだから、しょうない』とあたりを顧みて言った。
 ほんとうにその通りである。六十八歳の老齢を以てして一週間三十時間、僅かに余すところ一時間九分、目覚しく戦い抜いたのだから、同氏の不屈の念力、不撓の闘志の前に敬礼するとも、勝負の結果を云々する者はない筈だ。
 しかしさすがに私達一同は疲れていた。ましてや老齢の坂田氏はさこそと思う。少憩の後、この大対局の目出度く大団円になったのを記念すべく、一同揃ってカメラにおさまることにした。
 私達は静かな春の夕日が嵐山の肩を染める頃、坂田氏と花田氏を中心に、曹源池のほとりに集った。花田氏のつつましやかな喜びを見よ、坂田氏の己れを尽した満足気なさまを見よ! これこそまことに聖戦にふさわしい光景だと思う。
 私は坂田氏を送り、花田氏を送って、後に残った。何ということなく、戦闘の跡に、ひとり残りたかったからだ。ひとり落着いて考えたかったからだ。私は夕月が、小倉山の上にかかる頃まで、薄暗い対局場にひとり坐っていた。》

投了図は▲8八玉まで


天龍寺の決戦。終局後に境内の曹源池のほとりで。
右から菅谷北斗星、吉田耕司、阪田の介添役・家村喜三郎、阪田門下の星田啓三、阪田、
山本武雄1級、花田、読売記者の小川一雄、花田の介添役・山根憲一、読売記者の福井(敬称略)
=1937年3月28日。『写真でつづる将棋昭和史』から

【木村の述懐】

 阪田は本局にも敗れ、2連敗しました。阪田に対する評価はどうなったでしょうか。のちに木村は次のように話しています。
《(南禅寺の決戦に)私が勝って、続いて天龍寺で行われた戦いでも花田さんが勝っちゃったから、坂田さんの市場価値はグンと落ちちゃったね。勝負の世界は、そこが厳しい。》
(「週刊将棋」1984年〈昭和59年〉8月29日号"連載インタビュー 木村十四世名人に聞く(3)"から)

【その後の阪田三吉】

 阪田の時代は終わったと思われましたが、阪田は第二期名人決定戦に無段のまま68歳で参加、第一次リーグ戦で2勝6敗、第二次リーグ戦で5勝2敗、合計7勝8敗と、ほぼ互角の成績を残します。阪田にリーグ戦の参加を強く勧めた文豪・菊池寛は「あと十年早く名人戦が始まっていたら」と残念がりました。

対戦相手と成績は次の通りです。(勝敗は阪田側から見たもの、すべて平手)
第一次リーグ戦
(1) 神田辰之助八段
(2) 齋藤銀次郎八段
(3) 渡邊東一七段
(4) 土居市太郎八段
(5) 金子金五郎八段
(6) 花田長太郎八段
(7) 金易二郎八段
(8) 萩原淳八段
第二次リーグ戦
(1) 萩原淳八段
(2) 土居市太郎八段
(3) 金易二郎八段
(4) 金子金五郎八段
(5) 神田辰之助八段
(6) 齋藤銀次郎八段
(7) 渡邊東一七段