日本将棋の歴史(17)

南禅寺の決戦 ~阪田三吉対木村義雄戦~

【持ち時間30時間の異例の対局】

  1936年(昭和11年)6月に棋士団体の「将棋大成会」が結成され、東西の将棋界は統一しました。しかし、関根金次郎十三世名人の在位中にもかかわらず「名人」を自称して将棋界でただ一人孤立していたのが"眠れる獅子"阪田三吉でした。読売新聞社からの十年来の懇請に応えて阪田は、ついに指し盛りの八段二人、木村義雄、花田長太郎と対局することを決意します。
 まず、木村との対局は1937年(昭和12年)2月5日から11日までの1週間、持ち時間各30時間という異例の条件で、京都市洛東「南禅寺」で行われました。先手番木村の▲7六歩に対する阪田の第一手△9四歩に阪田ファンは喝采しましたが、軍配は木村に上がります。のちに"南禅寺の決戦"とうたわれる大勝負でした。読売新聞紙上には「坂田木村大棋戦」と銘打って2月6日付から3月10日付まで連載されました。

【10年越しの働きかけ】

 阪田八段が大阪で「名人」を自称して、当時の東京将棋連盟と関西の木見金治郎八段派と絶縁したのが1925年(大正14年)3月のことでした。以後、阪田は大阪朝日新聞社の嘱託として、主に指導対局などを行っていました。
 東京方の棋士との対局をぜひ実現させたい、と阪田に働きかける新聞社はいくつかありましたが、いずれも失敗に終わっています。中でも読売新聞社は、担当記者の菅谷北斗星(本名・要)が十年越しで働きかけていました。
 1933年(昭和8年)9月5日、阪田は1909年(明治42年)から嘱託を務めていた大阪朝日新聞社を退職しました。当時、もりそばが10銭、公務員の初任給75円の時代で、阪田の月手当は185円でした。なお、解職手当(退職金)は5,000円が支払われました。

阪田出馬を伝える読売新聞の記事=1936年12月24日付
阪田出馬を伝える読売新聞の記事=1936年12月24日付

阪田三吉贈名人・王将
阪田三吉贈名人・王将
木村義雄十四世名人
木村義雄十四世名人

【金八段の仲介】

 徳川時代から三百年以上続いた終生名人制(一度名人位に就いたら亡くなるまで名人、という制度)は、1935年(昭和10年)に関根十三世名人の大英断で実力による短期名人制へと大きく変貌を遂げていました。この実力名人戦の開始が阪田の意欲をかき立てたことは間違いないでしょう。その名人位を目指して激しく争っていた棋士が木村八段(31歳)と花田八段(39歳)の両者でした。
 心から阪田を敬服し、また阪田も心を許して交遊を続けていた東京方の唯一の棋士が金易二郎八段でした。金は実力名人戦を開始した時の日本将棋連盟会長で、読売新聞社の嘱託でもありました。阪田がまず対局の相談を持ちかけたのが金でした。
 当時のことを金が振り返っています。(「将棋世界」1956年〈昭和31年〉7月号の「坂田翁を偲んで」から)
《あるとき「東京の棋士と対局したいが、どうやろか」との手紙(注...阪田から)をもらつた。
 そこで私は「もう年をとられたことでもあるから、おやめになつては......」と返事したところ、「どうしても指して見たい」と折りかえしの知らせ。
「それなら今棋界の第一人者である木村八段と対局してはいかが」「それは出来るか」
「必ず出来る確信がある。というのは、この前坂田さんが日本クラブに見えたとき、折よくその場に居合わせた木村八段が自分も一度指して見たいといつていたからだ」というような手紙のやりとりがあつたあと「万事任すから話を進めてくれ」との返事。
 そこで私は坂田さんの上京をうながしたが実業家の福島信行(注...行信の誤りか)氏を代人とするからよろしくとのことだつた。
 それから私はこの話を当時坂田翁のかつぎ出しにやつきとなつていた、菅谷北斗星氏に持つていくと、「願つてもない幸いだから、是非骨を折つて頂きたい」ということで、福島氏を相手に交渉に入つたわけだが、福島氏は盤上に関することだけは本人との話合いにしてくれということになつた。それから菅谷氏と一緒に、坂田さんと話しを進めた結果、「段位」を書かぬことで話がまとまつた。》

【菅谷北斗星の回顧録から】

 菅谷北斗星が自著『将棋五十年』(時事通信社刊)の中で当時の状況を述べています。"阪田出馬"が具体的な動きになってきたのは1936年(昭和11年)の末ごろでした。
《私の所属する読売新聞社の主催であることはもちろんで、読売の希望として名人位を争ってツバ競り合いを展開している木村、花田の両八段に白羽の矢を立てた。坂田翁からある程度の内諾を得たので、 この実現を将棋大成会(注...現・日本将棋連盟)に申込んだ。もとより、その前に、木村、花田両氏から、会さえ承知すればの快諾は得てあった。
 ところが大成会としては重大問題で、名人位の最有力争覇者が、会員外の坂田八段に負けるようなことでもあると、たとえ名人戦で優勝したとしても、名人に推薦する上に大きな支障を免れないからで、名人戦を独占契約している毎日新聞社(注...当時の題字は東京日日新聞・大阪毎日新聞)の関係者も加わって、種々評議が行われた。》  場合によっては脱会してでも阪田と対局したい、という木村の強い意志を受けて将棋大成会も了承し、ついに実現の運びになります。関係者で協議した結果、対局の条件は次のように決まります。

  • 手合は平手(振り駒)。
  • 持時間は各30時間。
  • 対局日数は7日間。
  • 指し掛けの封じ手は交互にする。
  • 対局中は泊り込みとして外出を禁ず。
  • 老齢(満66歳=数えの68歳)の阪田翁のために付き添いを認める(令嬢玉江さん)。

※対局場は南禅寺の中の「南禅院」奥の書院。

 対局は表向き「振り駒」としていましたが、実は阪田の顔を立てて木村、花田が先手番と決まっていました。 阪田は1922年(大正11年)4月に花田長太郎七段と対局して以来、 なんと15年ぶりの平手戦でした。この時も後手番の阪田が敗れています。

南禅寺の決戦の模様を報じる読売新聞の記事=1937年2月6日付
南禅寺の決戦の模様を報じる読売新聞の記事=1937年2月6日付

【後手阪田の第一手は△9四歩!】

 南禅寺の決戦は、阪田の端歩突きでも一般によく知られています。先手木村の▲7六歩に対して△9四歩と突いた阪田の真意は、15年ぶりの平手戦なので最新の定跡、研究を避けたとも、「平手将棋は攻めるが不利」という原理を実践したものだともいわれました。 木村は、この△9四歩について、のちにこう語っています。(「週刊将棋」1984年〈昭和59年〉8月29日号"連載インタビュー 木村十四世名人に聞く(3)"から)
《坂田さんは二手目に△9四歩と端歩を突いてきた。これが問題の一手だったねぇ。
この手が生きて、こっちを追い込むようになるとは考えなかったね。結局、この手で駒組みが遅れて、あの将棋は駄目になったんだから。あの手で随分、気が楽になったね。》

 阪田はこの端歩突きについて、どう語っていたのでしょうか。

 かつて筆者は、阪田の直弟子・星田啓三八段(故人)にこの点をお聞きしました。
星田青年が端歩突きの真意を尋ねたところ、阪田は「時がたてば分かる」と答えるだけでした、とのことです。

【対局料は2局で一万五千円!】

 この時の対局料は、のちに木村が二千五百円と明かしています(「将棋世界」1973年〈昭和48年〉8月号掲載の木村石垣対談"真剣勝負五十年"から)
 阪田の対局料については、本間爽悦七段(のち八段)が直接北斗星に聞いた、として2局で一万五千円だった、と公表しています。(「将棋世界」1963年〈昭和38年〉7月号掲載"真説〝王将〟(下)"から)
《翁を愛する菊池寛氏及び読売の名観戦記者として知られる菅谷北斗星氏(故人)の奔走で、二局、一万五千円也でまとまったのである。この金額は星田六段の記憶(二局、一万円)と多少違うが私は、菅谷氏から直接きいたのだから間違いないだろう。
 なお、読売新聞社は〝坂田三吉激励募金〟をつのり、供託者の氏名を紙上に発表した。》

北斗星執筆による観戦記の第1譜。木村の初手7六歩に対し、阪田は△9四歩!=「読売新聞」1937年2月6日付
北斗星執筆による観戦記の第1譜。木村の初手7六歩に対し、
阪田は△9四歩!=「読売新聞」1937年2月6日付

1937年2月12日付「読売新聞」夕刊の記事。兵庫県の実業家:山本発次郎氏(注・アングル=肌着メーカー=創業者)が阪田翁に千円を寄付したことを伝えている。
1937年2月12日付「読売新聞」夕刊の記事。
兵庫県の実業家:山本発次郎氏(注・アングル=肌着メーカー=創業者)
が阪田翁に千円を寄付したことを伝えている。

 当時、公務員の初任給は約75円だったので、阪田の南禅寺での対局料7,500円は、その百倍でした。
 15年ぶりに出馬し、関東の若手花形棋士と戦うことになった66歳の阪田の心意気に感動して、阪田に寄付した関西の財界人も多かったのです。

【北斗星の観戦記から】

 北斗星はこの観戦記を次のように締めくくっています。
《坂田氏は一々『有難うございます、有難うございます』とお辞儀をして歩いた。それからまた私達は南禅院に引きあげて、迎えの車に乗るのを待った。南禅院は石段の上にある。小雨に煙る杉木立からは、しずくがぽたりぽたりと肩の上に落ちた。坂田氏は七日間の疲労が一時に出たか、足もとが心もとないので、令嬢の玉江さんが抱える様にして昇っていった。私は後から傘をさしかけて......見るともなし見る坂田氏の頸筋が、心なしかげっそり肉が落ち、やつれたのを感じた。私は何ということなしに目頭の熱くなるのをどうともすることが出来なかった。
 急に坂田氏が振り返った。『おおきにご苦労様でございました』と礼を言われた。私は傘から顔を出して、『しずくがひどいですネ』と答えた。ほんとうに杉のしずくが私の頰を濡らした。》
 (日本将棋連盟刊『菅谷北斗星選集 観戦記篇』から)

南禅寺の決戦。北斗星の観戦記第31譜(最終譜)=「読売新聞」1937年3月8日付
南禅寺の決戦。北斗星の観戦記第31譜(最終譜)=「読売新聞」1937年3月8日付

投了図は5五歩まで

【木村の嘆き】

 この南禅寺で木村は、その将棋人生をも縮める病気を患うことになります。対局中の1週間、外出せず高級料亭の豪華な食事を食べ続けたために糖尿病になってしまったのです。木村の述懐から。(前出 "連載インタビュー 木村十四世名人に聞く(3)"から)
《実はね、私はあそこで糖尿病になっちゃったんだ。ひでえ目に遭っちゃった。あれで、どのくらい人生を損したかわからない。
対局を終えて東京へ戻ってきたら、体がだるくてしようがないんですよ。大一番を戦って、体力的にも精神的にも参ったのかな、と思っていたけど、ひどくだるいんで報知新聞(注:1924年〈大正13年〉8月に報知新聞社に嘱託として入社、観戦記を執筆)の診療所で尿を調べてもらったら「これはいけない。真っ黒だ」と言うんですよ。》
 この病気も影響したのか、木村が引退を表明したのは1952年(昭和27年)8月24日、まだ47歳の若さでした。

 南禅寺の決戦で木村が、続く天龍寺の決戦で花田が、どちらも"関西の棋聖"阪田に勝ったことで、将棋界は初めて全国的に統一された、と言えるのではないでしょうか。

※(1)資料により「阪田」「坂田」と名字の表記が混在しますが、日本将棋連盟では「阪田」で統一しています。
 (2)阪田は1955年(昭和30年)に名人・王将を追贈されました。