日本将棋の歴史(14)
実力名人戦の発案と開始
【関根名人の大英断】
1921年(大正10年)5月、名人披露會当時の関根金次郎十三世名人
徳川時代から三百年以上続いた終生名人制は、1935年(昭和10年)に関根金次郎名人の大英断で実力による短期名人制へと大きく変貌を遂げることになります。当時の金易二郎・日本将棋連盟会長は、次のような声明書を発表しました。
《聲明書
本會は時相の推移と棋界の現状に鑑み昭和十二年度を期して三百年傳統の一世名人の制を廢しこれに代ゆるに短期交代の名人制をもつてし名人の選定は專ら實際對局の成績によることゝし近くこの對局を開始することに決せり
昭和十年三月廿六日
日本将棋聯盟會々長
金 易二郎
関根名人談 私は棋界の現状を考慮し、かねがね後進に道を譲りたいと考えてゐたが、聯盟では私の意のあるところを諒察され、昭和十二年七十歳をもつて名人位を退くことにしてくれました、また同時に舊制を廢し時代に適應せる新制度を講じ棋界百年の計を立ててくれた、私はこの制度の改革に寄與して年來の念願たる棋道の隆盛に寸功を致し得たることを哀心からよろこんでゐる》(1935年3月27日付「東京日日新聞」から転載。原文のママ)
【立案者・中島富治】
1921年(大正10年)中島富治
実力名人戦の実質的な立案者は、日本将棋連盟顧問を務めていた中島富治(とみじ。号・融雪。1956年〈昭和31年〉1月23日に70歳で逝去)でした。中島は退役海軍主計官で、高島屋飯田貿易の顧問をしていました。初めは土居市太郎八段の後援者でしたが、次第に将棋界全般にかかわるようになりました。
では、中島はどのように考え、根回しをし、実力名人戦を推進していったのでしょうか。
中島が「週刊朝日」の1950年(昭和25年)3月5日号から5月28日号まで11回にわたり連載した"将棋隋筆盤側三十年"の中から、その個所を見ていきます(原文のママ)。
《私が二度目に棋界の世話役を引き受けたのは昭和三、四年頃(注...実際は昭和6年)であつた。その頃将棋はだいぶ盛んになつてはいたが、それもきわめて低調なものであつた。因襲久しき封建制は容易に改まらず、積る情弊が少なからず棋界の隆昌を妨げていた。(略)
このような情勢のもとにあつて棋士の生活は苦しかつた。二、三の者を除いて、皆みじめで、到底彼等に品位の向上や、教養の増進を求めることはできなかつた。時たまの会同(注...会合のこと)で、居並ぶ彼等の元気のない顔を見るたびに、どうして彼等の生活を改善するか、どうして今後に増加する棋士を養つてゆくべきかに想到して、始終焦燥に駆られるのであつた。当時棋士の中で最も進んだあたまを持つていた幹事長の木村が、いつか私をつかまえて「何か将棋を急に盛大にするような奇想天外の妙案は無いでしようか」と聞いた。「ある。皆が文句なしに私について来るなら」と答えると「ついて行きますとも」といつた。彼も焦燥の朝夕を送つていたのである。
いろいろと考えたあげく、到達した結論は、名人制度の変革と名人戦の決行であつた。三百年の伝統を持つ一代名人の制度を廃して、実力により名人を選出することであつた。純然たる選手権制度である。(略)
だんだんに機は熟して来た。折よく甚だ好都合な情勢にも恵まれて、十分な自信を持ち得るに至つたので、意を決して麹町三年町に関根名人を訪ねた。昭和十年一月十四日、風の強い、寒い日であつた。
関根名人夫妻は珍客入来とばかり心をこめて歓待してくれた。早速草案を取り出して要談に入つた。棋界の現状から将来にわたつて子細に検討し、改革のやむを得ざること、改革のもたらす効果の見通しなどについて詳しく述べた。名人はほとんど口をきかず、時々眼をつぶつて考えていたが、やがて口を開いていとも静かに「結構です、どうぞおやり下さい」といつて、くりかえし私の苦心に対して謝意を表するのであつた。(略)
越えて三月十八日、全八段を拙宅に招集した。木見は大阪から何ごともご一任すると申入れて来た。(略)
やがて全員参集。土居、金、大崎、花田、木村、金子の六人であつた。会議は階上の一室で開かれた。彼等はけさの新聞で大体推察していたが、草案を見てさすがに驚いたようであつた。二時間にわたる質問応答ののち全員喜んで賛成、小修正を加えただけでこれを可決した。ただこの企画が一年七八万円を要する点において実現をあやぶむ気配が濃厚であつた。今のカネにすれば千万円にも当るわけで、あやぶむのが当然であつた。この会談は全員棋界の前途を思う熱意に燃え、極めて真剣な、しかも和気あいあいたるふんいきのうちに行われた。
つづいて廿五日山王境内の茶屋に臨時総会を開いて付議したが、七段以下に異論があって紛糾五時間にわたつた。名人戦に反対するのではなく、八段のみが余りに恵まれるというのであつた。結局、一年後に期待せよとなだめて同意させた。
これでこの改革は成立したのであつた。成立はしたが、いよいよ名人戦をはじめるまでにはいろいろ厄介な問題が起つて、一そう名人戦をやめてしまおうかと癇癪をおこしたことさえあつた。》
【阿部真之助の内幕記事】
名人戦の主催紙は、東京日日新聞・大阪毎日新聞に決まりました。東京日日新聞と大阪毎日新聞は1943年(昭和18年)1月1日、新聞統制により題字を「毎日新聞」に統一し、現在に至っています。
実力名人戦独占掲載の社告=1935年5月1日付
中島とともに名人戦の成立にかかわったのが東京日日新聞学芸部長の阿部真之助(のちNHK会長)でした。
「サンデー毎日」誌上に終生名人制への批判記事を執筆した阿部に対して、かねてから同じ意見を持っていた中島は、同紙将棋担当記者の黒崎貞治郎(注...「梅木三郎」の筆名で「長崎物語」「空の神兵」などを作詞)を通じて実力名人戦の創設を持ちかけます。
当時の内幕を「近代将棋」1950年(昭和25年)4月号(創刊号)に阿部が"名人戦の始まった頃"と題して寄稿しています(原文のママ)。
《現在でもそうだと思うが、大きな新聞社では、お抱え相撲のようにして、専属の棋士を抱えていた。中島のいうには、自分の勢力下には、花田、塚田、坂口、加藤等々の精鋭分子がある。木村は別派だが、いよいよ名人戦が始まれば、次期の名人たる公算は、木村に一番大きい。だから木村がこれに反対する理由がない。最も難関だと思われるのは、土居の一門だ。土居は棋界に一時期を劃した天才で、もし関根というものがなかつたら、とつくに名人を襲うべき人だつた。不幸にして関根に頭を押えられ、その間に最盛期をすごしてしまつた。今にして実力をもつて名人位を争う如きは、彼の最も不快とするところであろう。しかし土居が、毎日新聞に専属していることは、僥倖である。毎日の発企として名人戦を始めるなら、彼は義理合い上、反対することはできないだろうと、いうのだつた。しかし私の懸念は、関根が果して、快く引退を決意するや否やだつた。》
【土居八段の心境】
終生名人制が続いていれば間違いなく十四世名人を襲位すると見られていた土居市太郎八段は、実力名人戦の開始をどう思っていたのでしょうか。"名人戦所感"(「改造」1940年〈昭和15年〉9月号)と題した一文の中に土居の心境が率直につづられています(原文のママ)。
《昭和棋界は、新聞・雜誌戰を契機として飛躍的の發展をなし、技術の進歩は言ふ迄もなく數多有望棋士の輩出、八段の續出等著しく移り變つて行つた。この世の烈しい移りをヂッと見凝めてゐた關根先生は後進に道を拓く目的で劃期的の英斷、即ち當時の將棋聯盟へ「名人一代制」を破棄しようと提案されたのである。勿論これと附帶して、今後實力あるものに名人を讓らう、その代り二年交代制であくまで腕づく本位で捷ち得よ、といふのであつた。この點が私にとつて最も肝腎の事だつた。
この間有力者の奔走があり、先生のこの心意は最も早く私に齎らされて來た。實は、私はこの結構な話を不滿をもつて聞いたのである。......遅い......既に初老に入つた私には時機を去つてゐたかに感じられた。
そして遺憾というか妙な、いらただしさに私は、幾日かを惱み續けた。然し、この大きな時勢の変遷、棋界發展の前には、個人の感情など到底入れられるべき筈はない。
......棋界のため......萬事はこれに盡きてゐる。これ迄の行き懸りなど總べて、水に流すのが本當だと、心を叱り遂に意を決した。双手を擧げてこの「名人新體制」に私は賛成したのである。》
【関根名人の胸中】
関根名人の胸中はどうだったのでしょうか。作家で、観戦記者の倉島竹二郎は、その著書『関根金次郎物語』の中で、次のように当時の関根の言葉を書き残しています。
《先代名人の小野さんは六十九歳(注...数え年)で名人になられたが、九十一歳までおられたから、わしは二十二年間も名人の待ちぼうけをくった。自分の弟子をほめるのはどうかと思うが、若いながら木村義雄などは名人の器(うつわ)のような気がするし、他にも優秀な棋士が沢山いる。そうした有望な棋士たちにわしがなめたと同じような思いをさせたくない。だからわしは何とかして後進に自分の地位を譲る道はないかと単に考えていた。それが中島富治さんとの話し合いで一代制の名人の廃止から実力名人戦による名人へと具体化したのだが、最初わしは九段制を考えてそれを主張したことがある。諸君も御承知のようにこれまで八段以上はなく九段は名人と同じだが八段のもう一段上の九段をつくり、その九段の中から成績抜群の者に名人を譲ろうかと思った。しかし、九段をつくるというだけでは新聞社にとってもう一つ魅力がない。どうしても名人戦ということにせぬとパッと派手にはゆかぬ。新聞社としてはそのことで沢山の金を出すのだから、読者に受けるようにウンと派手にしたいのは当然で、それやこれやで実力名人戦という制度になったのである》
現在の将棋界の隆盛は、この関根名人の大英断があってこそと言えるでしょう。特別リーグ戦の対局料は八段一局一人三百円(もり・かけそば十銭~十五銭、公務員の初任給が約七十五円の時代)と高額(七段:百二十円、六段:百円、五段:八十円)で、それに準じてほかの新聞棋戦の対局料も上昇し、八段にとって以後数年間は、経済的には最も潤った時代だったかもしれません。
【名人選定方法など】
実力名人戦の選定方法は次の通りです。
《棋道の更革
一、 現名人は後進に道を讓りたき豫ての意向に基き昭和十二年七十歳を以て名人位を退き前名人となる 但し前名人として講評對局をなすことは現状と異るところなし
二、 一世名人は第十三世を以て最期とす
三、 次の名人は別記の方法によりさだむ選定し之を第何期名人と稱す、但し普通の場合には單に名人と稱す 名人の段位は九段とす 名人は同時一人とす
四、 左記(下記)二項を必須の條件として昇段規定の根本的改正を行ふ
(一) 棋界の行詰りを招來せざる様昇段を嚴重ならしめること
(二) 降段規定又はこれに代るべき規定を設け段位の實力標示を正確ならしむること
五、 土居、大崎、金の三氏に對して今後適當な方途によりその功勞を表彰す、殊に土居八段に對して然り
名人選定方法
(一) 第一期名人の選定
一、 略ぼ二年間に亘りて全八段の先後二局づゝの特別リーグ戰を行ひその平均得點に百分の五十五を乘じたるものを以て各人の得點とす
二、 前項の期間に於ける前項の特別リーグ戰以外の對八、七段戦の平均得點に百分の四十五を乘じたるものを各人の普通棋戦の得點とす
三、 特別リーグ戰並びに普通棋戰の得點を合し、これに依り名人の成績順位を定め、第一位並びに第二位のものを名人候補とし之に先後六回の決勝對局をなさしめ優勝者を名人に推薦す、但し第一位と第二位との得點の差八點を越ゆる場合にはこの決勝對局を行ふことなく第一位のものを名人に推薦す、決勝六回の對局に於て同率となりたるときは第一位のものを名人に推薦す
四、 前項の得點四十點に達せざるもの又は不可抗力によるにあらずして特別リーグ戰を完了せざるものは次の特別リーグ戰に参加するを得ず、得點三十點に達せざるものは聯盟に於て適當と認める時期まで特別リーグ戰に參加することを得ず
(二) 第二期名人以降の選定
一、 新に名人決定したるときは一ヶ年を經て前記の方法により次の名人を選定す可き棋戰を開始し前記の名人決定の方法に準じて名人候補を決定す
二、 引きつゞき名人と名人候補との間に平手先後七回戰を行ひ名人優勝したるとき名人位に止まり、敗れたるときは八段に下り優勝者を名人に推薦す
三、 得點四十點に達せざるもの又は不可抗力によるにあらずして特別リーグ戰を完了せざるものは次の特別リーグ戰に参加するを得ず、得點三十點に達せざるものは聯盟に於て適當と認める時期まで特別リーグ戰に參加することを得ず
四、 七段にして一定期間中八段に對する平手戰の得點九十點に達するもの又は特に實力充實せりと認めらるゝものは一回一人に限り時宜により八段に準じ本棋戰に參加せしむることを得右(注...上記)の決定は名人、八段、顧問の会議に依るものとす
本棋戰實行に伴ふ諸件
一、 現名人、名人位を退くに際し、功勞謝金として聯盟より金壹萬圓を贈呈す
二、 第一期名人決定したるときは直ちに名人退就任式を擧行し、尚現名人古稀の祝賀を兼ねて披露將棋大會を催し(聯盟より金壹千圓を醵出し、殘餘金を以て)新舊名人に紀念品を贈呈す
三、 特別リーグ戰の對局料は左(注...下記)の通りとす
一局一人、金參百圓
右の内七十五圓を聯盟に醵出し、八段寄金として特別會計を設置し棋士の幸福進の費途に當つ
決勝戰に於ける名人の對局料は相手の二倍半とす
四、 特別リーグ戰の棋譜を掲載する新聞社は毎月一局の割合を以て、五、六、七段の戰譜を掲載するものとす、其の指料を左(注...下記)の通りとす
七段 百二十圓
六段 百 圓
五段 八 十 圓
五、 特別リーグ戰の棋譜を掲載する新聞社は聯盟に、金壹萬六千圓を支拂ふものとす、但し内金壹萬圓は契約成立と共に支拂ふものとす》
【名人戦関連の新聞記事】
以後、主催紙の東京日日新聞・大阪毎日新聞は、名人戦開始の予告記事をたびたび載せ、盛り上げていきます。
1935年6月30日付
1935年7月6日付
本棋戦では当初から指し手の書き方を「7六歩、3四歩」と算用数字、漢数字の組み合わせに変えました。この方式は、ほかの新聞社・雑誌も追随して現在も続けられています。発案者は大阪毎日新聞の樋口金信記者といわれています。それまでは「七六歩、三四歩」というように漢数字だけでした。
東京日日新聞社・大阪毎日新聞社主催「名人決定大棋戦」の第1局第1譜
花田長太郎八段(勝ち)対金子金五郎八段戦の観戦記=1935年7月7日付
この観戦記は、樋口記者の「あゝその日は來た!!」の書き出し(1935年7月7日付)でも有名です。
本棋戦を実施中に神田事件、南禅寺の決戦、天龍寺の決戦など、将棋史上に残るいろいろな出来事が起こっていきます。