日本将棋の歴史(13)

土居時代から木村時代へ

【若い世代の台頭】

1917年(大正6年)10月に阪田三吉八段を破って以来、実力第一人者は"旭将軍"の異名を持つ土居市太郎八段と考えられてきました。しかし、終生名人制の当時、関根名人の在位中は名人を襲位することができません。
そのうちに若い世代が驚くべき早さで、土居のあとを追いかけてきました。のちに「序盤の金子、中盤の木村、寄せの花田」と称される昭和の三雄、なかでも木村義雄八段の進境は著しかったのです。

土居八段
土居八段
木村八段
木村八段

【土居と木村との五番将棋】

実力第一人者は土居か、木村か?

作家で"愛棋家"の菊池寛が、その経営する雑誌「文藝春秋」「モダン日本」で、いまの最強棋士がだれなのかを確かめるために土居市太郎八段と木村義雄八段との五番将棋を企画します。どちらかが3勝すれば終わりではなく、必ず5局指す条件でした。土居43歳、木村25歳と18の年齢差がありました。それまで両者の平手の対戦成績は、4勝4敗で互角でした。

【木村の4勝1敗!】

「文藝春秋」は1931年(昭和6年)1月号から7月号まで、金子金五郎七段の観戦記「土居八段木村八段五番将棋に就て」を連載します。
 持ち時間は各15時間、対局場は全局、東京市麹町内幸町「文藝春秋倶楽部」で行われ、第1局は1、2月号、第2局は3、4月号、第3局は5月号、第4局は6月号、第5局は7月号に掲載されました。その結果は、木村の4勝1敗(○●○○○)に終わり、真の実力者が土居から木村に移っていることをはっきりさせました。
 この五番将棋は、系列の雑誌「モダン日本」(文藝春秋社刊)にも「土居八段木村八段 平手戰五番將棋」のタイトルで、棋譜と両対局者の自評が連載されました。譜割りした各図面に「木村八段曰く。」「土居八段曰く。」という自戦解説で誌面構成をしています。指し手には消費時間も掲載されました。  ちなみに1931年1月当時、活躍していた八段は、土居、大崎熊雄、金易二郎、木見金治郎、花田長太郎、木村の6人。金子七段の八段昇段は翌1932年(昭和7年)12月25日のことでした。

文藝春秋社主催「土居八段・木村八段平手戰五番將棋」の社告=「文藝春秋」1930年12月号
文藝春秋社主催「土居八段・木村八段平手戰五番將棋」の社告=「文藝春秋」1930年12月号

金子七段による第1局の観戦記=「文藝春秋」1931年1月号
金子七段による第1局の観戦記=「文藝春秋」1931年1月号

 対局者二人の談話で誌面が構成された「土居八段木村八段平手戰五番將棋」=「モダン日本」1931年1月号
 対局者二人の談話で誌面が構成された「土居八段木村八段平手戰五番將棋」=「モダン日本」1931年1月号

【大天才・土居の棋風】

  木村は土居の棋風について、次のように述べています。(「週刊将棋」1984年〈昭和59年〉9月26日号"連載インタビュー 木村十四世名人に聞く(5)"から)
《土居さんの攻めの鋭さをそれまでの棋士はなかなか受け切れなかったんだ。
 もともと天才でね、あの人は。大天才だと言っていいだろうね。直感が鋭敏で局面に明るいわけだ。一目見てすぐ手が浮かんでくるという人だ。ちょっとあれだけの人は珍しいと思うね。
 ただ、天才的なひらめきで見た目で行くから、深く考えるということはない。私に言わせると棋風が違うんですよ、土居さんと私とは。
 私の方は考え、考えて練り出していく将棋なんだ。向こうは直感の鋭敏さですぐ手が見える。その上に考えれば恐ろしいんだが、由来、天才的な人は考えないね。わりあいにパッパッと目につくから、すぐやる。
 そのため、もっとここは考えるべきじゃないかと、私なんか思うようなところをすぐ指してきて、そこにスキが出るんですね。》