日本将棋の歴史(12)

新進棋士奨励会の始まり

 現在、棋士を養成する機関である奨励会の正式名称は「公益社団法人日本将棋連盟付属新進棋士奨励会」ですが、便宜上、以下「奨励会」と略します。
 当初、奨励会の運営はプロ棋士ではなく、アマチュアの後援者によって行われていました。奨励会は1928年(昭和3年)9月23日、東京市市谷の安田与四郎(経済誌「ダイヤモンド」主筆)邸で、東京在住棋士の門下生23人により「手合会」(昇降段戦)が開かれたことで始まりました。

【生出拙哉・奨励会幹事の述懐】

 中島富治(海軍主計官、高島屋飯田貿易顧問。のち日本将棋連盟顧問)、石山賢吉(「ダイヤモンド」社長)、安田、岩田春之助(弁護士)とともに奨励会幹事を務めた、中央大学商学部教授の生出拙哉(おいで・せっさい=本名・徳治)が次のように奨励会発足について述べています。(「将棋世界」1956年〈昭和31年〉4月号から転載。原文のママ)

草創期の奨励会幹事を務めた生出拙哉氏(1883年〈明治16年〉8月19日~1956年〈昭和31年〉9月26日)
草創期の奨励会幹事を務めた
生出拙哉氏
(1883年〈明治16年〉8月19日~
1956年〈昭和31年〉9月26日)

《ある時筆者は、かねての腹案であつた、高段棋士の内弟子連の相互の研磨機関―これまで斯の種の機関は何もなかった―を創設して、新時代のプロ棋士としての適格者―吾々が話相手として、盤外でもつきあい得るような大棋士―を育成してはどうか(略)と提案すると、明智中島は、小膝を打つて即座に賛成したが、これは相当厄介な仕事だが実際の運営をどうするか、と来た、言い出しべいで、俺が自身でその実務を引き受けようと言わねばならない破目になつて仕舞つた、中央大学教授兼青少年棋士育成係なら申分はあるまい、と大笑しながら、早速名人高段棋士連その他の幹部と相談したが、固より異議ある筈もないので、毎月五円以上(今の千五百円以上に当る)を醵出する、多数賛助員の協力を得て、新進棋士奨励会の発会式を、有力な後援者であつた、ダイヤモンド社の黄子(注...筆名)安田与四郎氏の市ヶ谷邸で開いた。(略)かくて奨励会は、棋友会(注...中央棋友会=当時のアマチュアの代表的な将棋会)の当日矢来クラブや松本亭の、棋友会席の一部を借りて、賛助員及び棋友会ゝ員環視裡に五番勝負を争うた。会からは中食を給した上、一等五円、二等三円、三等二円の賞金を出し、当日の成績は、師匠の名と共に、ガリ版摺として間もなく、賛助員、棋士、会員、その他関係方面に配られた、されば棋士達もだんだん内弟子連の勉強に力を添えるようになり、会員の研究態度は見違えるように真剣になつた。
 奨励会員は、八級から三段までとし、級者は会限りで、自由に昇降させるが、段者については、中島会長(の名称は使わなかつた)と、連盟との諒解に基づき、四段として卒業させるまで、会の推薦がそのまゝ公認されるのであつた。
 かくて奨励会は実に青少年プロ棋士の唯一の登竜門となつたから、会員は平素棋力向上の外、未来の名人、大棋士たるに相応わしい気品と風格とを身につける心掛を要請され、会の指導も、専らその指針に副うて居た。(略)
 後に将棋連盟の基礎が漸く固まり、中島君が顧問となるに及んで、いつまでも多数ファンの負担に頼るよりはと、奨励会運営の全部を連盟に移して、本然の姿に替えた(注...1931年〈昭和6年〉2月)のが、今日の日本将棋連盟附属新進棋士奨励会である。》

八段時代の坂口允彦=『写真でつづる将棋昭和史』から
八段時代の坂口允彦=『写真でつづる将棋昭和史』から

【坂口允彦九段の述懐】

 奨励会の第一期生だった坂口允彦八段(のち九段)が、当時の出来事を回顧した"生出拙哉先生の思い出"と題した追悼文を紹介します。(「将棋世界」1956年〈昭和31年〉12月号から。原文のママ)
《昭和二、三年の頃にはまだ奨励会というものが無かった。棋士の卵はみな内弟子をしていてその昇段なども話しあいで決めるというようなものであつた。その時これではいけないと中島富治先生等有志の方々が奨励会という新進棋士の養成機関を設けて棋力ばかりでなく教養の育成にも尽された。当時の生出先生の奨励会報告を次に記してみよう。

 昭和三年十月第二回は牛込矢来クラブにおいて開いた。(第一回は牛込の安田与四郎氏宅で九月二十三日に催された)参戦棋士二十一名に達し、山本溝呂木両顧問の外花田八段、石井六段、斎藤四段等来援気勢を添え有志側よりは生出幹事の外安田、岩田、相沢、江場田、黒沢、渡辺、中島、諸氏来会、今日こそは過去一ケ月間に於ける刻苦研瑳のほどを示しくれんとばかり、闘志旺盛各人緊張笑声一つ洩らす者無く火の出るような激戦を続け午後七時対局を終り次の成績を示した。
    一等賞   五級 加藤 治郎
    二等賞   二級 梶  一郎
    三等賞   初段 坂口 允彦
    特 賞   四級 久松栄之助
    特 賞   一級 稲毛善四郎
 加藤治郎五級は局数規定の八局に及ばざるもその成績抜群なるをもつて特に協議の上四級に昇級決定直に之を発表した。(幹事生出報告)

 当時の会員では、入賞者の他に、塚田、建部、加藤恵三、橋爪、松下君等現役で活躍している。その他勝田、土山君等の名もなつかしく思い出される。その日二等になつた梶さんは例の無頓着さから着流しで行つたところ「そんな服装では指させるわけにいかん」と生出先生に退場を命じられた。ビックリした梶さんは、どこをどうくめんしたのか剣道の袴を胸まで高くはいて来た、先生は笑いながら「それでよし」といわれた、梶さんは入賞して賞金をもらい、にこにこしていたが後で聞たところでは電車賃が無いので「今日はどうでも賞金を取って奢るから」と松下君に往復五銭を借りたのだそうだ。》

【加藤治郎名誉九段の述懐】

 この時、一等賞を受けた加藤治郎青年(のち名誉九段)は、まだ学生(早稲田大学高等学院)で、奨励会員ではなく、中島富治幹事から誘われて参加しました。その後、加藤は早稲田大学商学部に進み、1931年(昭和6年)に「早大将棋研究会」を設立しました。加藤が正式に奨励会に入会したのは1933年(昭和8年)6月で、付け出し三段のデビューでした。
「奨励会が出来て将棋界の形が整いましたね。奨励会を卒業して初めて四段になる、とはっきり決まった。それまではいい加減でした」と加藤は述懐しています。

【中島富治・日本将棋連盟顧問の述懐】

中島顧問(当時)は雑誌「将棋日本」の1935年(昭和10年)2月号で奨励会について、
規定などについても述懐しています(原文のママ)
《新進棋士奨勵會は、卽に五段三名、四段九名、計十二名の卒業生を出だし、三段三名、二段五名、初段十名、一級以下六級十五名、計三十三名の會員を有してゐる。入會希望者は甚だ多いが、聯盟に於ては棋士過剰の現情に鑑み、嚴選主義を採り、容易に入會を許さないのみならず、現會員中にても、上達の見込なきもの、人格の卑しきものを、整理淘汰すべく計畫してゐる。入會資格としては、廿歳にして初段の實力あるもの、又は廿歳には初段に達すべき見込のあるものなるを要すとしてゐるが、之はいろいろの點から、嚴格には行はれ難いようである。
 新進棋士奨勵會の内容は、毎月一回(現在では毎月十九日、山王山内山の茶屋に於て)競技會を開催し、その成績を記録、集積して、左の成績を得た場合に昇段又は昇級せしむることになってゐる。
(一)五級より初段に昇る場合
 (イ)對局數八局以上にして九十點以上を獲たるもの
 (ロ)最近連續十二局の成績九十點以上を獲たるもの
(二)二段並に三段に昇る場合
 (イ)對局數十二局以上にして九十點以上を獲たるもの
 (ロ)最近連續十八局の成績九十點以上を獲たるもの
(三)四段に昇る場合
  一年間の成績九十點以上を獲たるもの、但し相當の對局數なることを要す
  採點は聯盟の採點方法に依る

 卽ち三段迄は、所定の成績點數を獲れば卽時昇進し、四段に昇る場合は毎年末一回の審査であつて、從つてその得點も年と共に更新するのである。
 四段になれば、本會を卒業して、一人前の棋士として、或程度迄大新聞の棋戦に参加するの資格を得るわけである。
 以上の如き制度であるが故に、毎月一回の競技會の成績は、新進棋士にとりては唯一の登龍試驗であつて、各人心血を傾けて對戰する、その意氣込は寧ろ凄惨なものがある。從つて數々の悲喜劇が演ぜられる。
 尚、此の會の費用は食事費に至るまで全部聯盟に於て負擔してゐる。》
同年(1935年)9月19日、奨励会の昇段規定を改め、10月から例会を毎月2回(4、19日)開くことに決定しました。
関西奨励会はどのように始まったかを見ていきます。

【関西新進棋士奨励会の発足】

大阪に関西新進棋士奨励会が発足したのは1935年(昭和10年)11月15日でした。東京同様にアマチュアの愛棋家による創設で、会長は木見金治郎八段(贈九段)の後援者だった実業家の田中房太郎氏(こいや呉服店・大阪市北区曽根崎一丁目)が務めました。初の会員には升田幸三三段、大山康晴5級(のちの十五世名人)らがいました。
 観戦記者の井口昭夫は『名人の譜 大山康晴』(日本将棋連盟刊)の中で、関西奨励会の始まりを次のように記しています。
《昭和十年十一月十五日、棋士の養成機関としての関西奨励会が生まれ、大山は五級で入会し、十二月から手合に参加した。これは田中房太郎氏(注...1941年〈昭和16年〉9月号の「将棋世界」では、樋口金信記者が「田中淳介氏」と紹介している)の尽力でできたもので会場には木見道場(注~大阪市北区老松町三丁目=現・西天満四丁目)が使われた。プロの卵だけでは数が少ないのでアマチュア棋客の参加も認めた。升田(幸三・実力制第四代名人)が最高の三段、南口繁一初段、里見義舜一級、里見義周二級、山中和正三級、横山繁三級、多田政雄三級、大山康晴五級、本間一雄(のちの爽悦)五級、武井義規五級でスタートしたが、升田はこの年十二月に三段になったので、奨励会には参加していない。以上は大山の記憶である。
 名人制がスタートして間もなく神田辰之助七段の昇段をめぐる争いから将棋界が分裂し、日本将棋連盟を脱退した花田長太郎、金子金五郎を盟主とする派が、神田七段の「十一日会」と合併して「革新協会」を設立、また関西には名人を名乗った阪田三吉がいて、棋界は混沌とした状態になった。
 この騒ぎは翌十一年六月に和解が成立し「将棋大成会」として統一が成った。この結果、これまで木見一門とアマチュアで占められていた奨励会は、仲間がふえることになった。十二年二月十一日、神田一門の岡崎史明、北村秀治郎らが加わり、アマチュアが抜けた。ただし、対局は老松町の木見道場と天王寺区石ケ辻の神田道場で交互に行われるようになった。例会日は月二回、第一、第三日曜であった。》