日本将棋の歴史(9)

阪田の名人僭称問題

1925年(大正14年)3月12日付「大阪朝日新聞」は「坂田八段をいよいよ名人に推薦 京阪神の多數有志から」と題し、後援者に強く推された阪田三吉八段が名人をとなえるまでの経緯を大きく報道しました。

阪田八段が名人をとなえた理由

1924年(大正13年)9月8日に東京将棋連盟が結成された際、大崎熊雄、金易二郎両七段が八段に昇段しました。同年9月には大阪の木見金治郎七段が、翌14年2月には花田長太郎七段が続いて八段に昇段しました。
それまで将棋界で実質的に活躍していた八段は、阪田と土居市太郎の二人でした。1917年(大正6年)10月に七段時代の土居に平手で敗れたものの、2年後の1919年5月には、八段に昇段した土居に後手番で勝っていたこともあり、阪田の後援者は、このままいけば関根金次郎十三世名人の後継者は当然阪田と考えていたことでしょう。ところが、わずか半年の間に八段が四人増えるという「八段乱造」にとうとう我慢できなくなったことが最大の理由でした。

「大阪朝日新聞」の名人宣言記事

阪田名人推薦を報じる「大阪朝日新聞」=1925年3月12日付
阪田名人推薦を報じる「大阪朝日新聞」=1925年3月12日付

阪田の真情としては「寧ろ無段を標榜して『何等の拘束なく自由に手合せして生涯を将棋道に捧げたい』との信念」(1925年3月12日付「大阪朝日新聞」から〈原文のママ〉、以下同様)を抱いて固辞していました。ところが、恩人とも言える後援者たちの強い要請を受け、ついに引き受けたのです。
「日本麦酒の高橋龍太郎、ダイヤモンドの佐田富三郎、大阪倶樂部の平田讓衛、觀音林倶樂部の那須善治、清交社同人、銀行倶樂部の坂野兼道、王子製紙の堀越重助の諸氏はその部の代表の意味を以てまた個人としては特許辨理士の江田邦太、(中略)京都の有力者等の紳士一齊に起つて坂田氏名人推薦を發議したるところ斯界の愛護者素人棋客の高段者である伯爵柳澤保惠氏は『当方より御相談願はんと豫てより心掛け居り候ことゝて全然同感大賛成に有之候、現時玄人筋の人物無暗に昇段の事実を見心密かに嘆息致し坂田氏に何となく気の毒に存居候際とて何卒至急名人に昇格の議希望の至りに不堪候云々』と即座に共鳴し來り、更に伯の棋友福島行信、久米民之助、服部金太郎、大橋新太郎氏等東京紳士棋客の団体である日本倶樂部よりも聲援しこゝに賛成者といふより首唱者と見るべき士八十餘名に及んだ、固く辭してうけなかつた坂田氏も感激し遂に名人樹立を快受することゝなつた」という経緯でした。

東京将棋連盟の反対決議

「阪田名人」誕生に驚いた東京将棋連盟は、翌13日に緊急評議委員会を開き、関根十三世名人在世中にもかかわらず名人を名乗った阪田とその後援会の行動に対し、次の反対決議を行いました。
→1925年3月14日付「報知新聞」から(原文のママ)

阪田八段の昇段

《   決 議
一、 東京将棋聯盟は八段阪田三吉氏の名人昇格を認めず
二、 阪田氏が実力を以て名人の段位をかち得んとして東京将
棋聯盟に挑戦する場合将棋聯盟は代表選手を選抜してこれに開戦することを辞せず
 右決議す
 大正十四年三月十三日
         東京将棋聯盟
元来名人は一時代に一人に限るのは、數年来将棋界の傳統的不文律で、現に名人關根金次郎の厳存する今日、更に他に名人を 樹立することは、将棋界の慣習を無視した暴挙で素人の推薦のみで解決せんとするは将来に悪弊を残すものである(以下略)》
また、同日付の「読売新聞」は、「坂田八段の名人を認めぬ決議東京棋客の荒い鼻息」という二段見出しとともに、「問題の名人」とキャプションを付けて阪田の顔写真を掲載しました。

阪田名人を認めぬ決議を報じる「読売新聞」=1925年3月14日付
阪田名人を認めぬ決議を報じる「読売新聞」=1925年3月14日付

阪田名人推薦式

阪田三吉名人推薦式及び祝賀会は1925年(大正14年)4月10日、大阪・船場の平野町「堺卯楼」で、後援者多数の出席により盛大に執り行われます。
この推薦式に対して東京将棋連盟は同年4月16日、「名人僭称」として阪田とその一派との絶縁を決議しました。決議は次の通りです。(「将棋新誌」1925年5月号から。原文のママ)
《東京將棋聯盟緊急評議員會
去る四月十六日將棋聯盟會は坂田氏名人問題に就て關根名人宅に於て緊急評議員會を開き左の決議を發表した
    決  議
東京將棋聯盟は曩(さき)に坂田八段の名人昇格の風説ありたるに對し、反對の決議を爲したるも、坂田氏は何等顧慮する事なくして、名人披露を爲したり。東京將棋聯盟は飽くまで斯かる暴擧を承認せず。
  大正十四年四月十六日
                              東 京 將 棋 聯 盟》

大正時代は新聞棋戦が続々と開始され、関根対阪田の対決などで話題を集め、明治時代より少しずつ明るい材料が増えてきました。もっとも、将棋だけで生活できる棋士は、まだ数人でした。関根名人の誕生、そして阪田名人僭称などの問題も生じましたが、1926年(大正15年)には"新星"木村義雄が八段に昇段して、いよいよ八段同士で戦う大型の新聞棋戦が誕生することになります。

詳しくは以下の「大正時代の将棋年表」をご覧ください。

大正時代の将棋史年表 ~新聞将棋を中心に~

西暦 日付 項目
大正元? 1912 「東京毎夕新聞」、棋戦開始。
2 1913 3月20日 阪田七段上京、関東の棋士と数多く対局をしていく。
寺田浅次郎四段の顧客・菅原弥吉の招待だった。
4月6日、7日 阪田七段の歓迎会を将棋同盟社と東京将棋社と合同で開催する。
「香落次第」という手合で関根八段対阪田七段戦が行われる。本局で芝居や映画の「王将」で有名な阪田のセリフ「銀が泣いている」が生まれた、といわれる。
勝負は優勢だった関根に見落としがあり、阪田が「夢の名角」で逆転勝ちした。
会場は「築地倶楽部」から「小松将棋所」へ移ったが、両者とも30時間、一睡もしないで指し継いだ。(「萬朝報」「国民新聞」に掲載)
4月12日 関根八段と阪田七段との初の平手戦が名古屋「東鮓本店」で行われ、関根が勝つ。
「萬朝報」掲載。
4月12日付 「やまと新聞」、棋戦「名家将棋新手合」開始。
7月(?) 「憲政新聞」、棋戦「敗退将棋新手合」開始。
7月11日、12日 「大阪朝日新聞」主催による関根八段対阪田七段戦が大阪箕面「朝日倶楽部」で行われる。まず香落ちで28時間を費やして阪田勝つ。続いて7月14日、同所で阪田は平手で初めて関根に勝つ。7月20、21日、大阪中の島「銀水楼」で関根が先手で指し、阪田に勝った。
10月8日付 「秋田魁新報」、棋戦「将棋新手合」開始。
12月16日 小野五平名人と関根八段との対局が東京築地の料亭「新喜楽」で行われる。
小野が右香を落として逆転勝ちした。柳澤保惠(やすとし)伯爵の催した将棋会の上でのこと。棋譜は翌3年1月1日付から5日付まで「東京日日新聞」に掲載。
4 1915 2月 阪田、柳澤伯爵の斡旋により小野名人から八段の免状を受ける。
4月3日~5日 柳澤伯爵主催により阪田八段が井上義雄八段と対戦して勝つ。本局は同年5月17日付から20日付まで「大阪朝日新聞」に連載された。
7月14日 川井房郷(ふささと)七段逝去。63歳(数え)。師系でいうと、川井→石井秀吉七段→佐瀬勇次名誉九段→米長邦雄永世棋聖......になる。
10月4日付 「北海タイムス」、棋戦「名家将棋新手合」開始。
12月21日 柳澤伯爵主催による第二回将棋大会は、関根八段対井上八段戦で、井上勝つ。
12月22日 引き続き関根八段対井上八段戦が行われ、持将棋になり無勝負。
5 1916 5月4日付 「大阪毎日新聞」、棋戦「将棋新手合」開始。
5月10日 関根八段対井上八段戦が行われ、関根敗れる。両者の対局はこれが最後になった。通算対戦成績は、3勝3敗1持将棋だった。
6 1917 1月17日付~21日付 関根八段門下の木村義雄、初めて新聞将棋を指す。相手は小泉兼吉初段で、平手で勝つ。「東京朝日新聞」掲載。
10月8日、9日 阪田八段が全国を遊歴しながら上京。次期名人位を左右する大一番と新聞各紙に書き立てられた対関根八段戦に勝つ。対局場は柳澤伯邸。棋譜は「大阪朝日新聞」に掲載された。勝敗と写真は「萬朝報」「国民新聞」「報知新聞」「時事新報」「都新聞」などに掲載。敗れた関根は、責任を取って将棋同盟社を退社することになる。
10月16日、17日 続いて阪田八段は、大正2年に平手で敗れた土居七段と対戦するが、再び敗れる。勝っていれば、次期名人に阪田を推す声が高まったことだろう。土居にとって"出世将棋"になった。「萬朝報」、「大阪朝日新聞」に観戦記が掲載された。
10月22日、23日
10月25日、26日
関根八段対阪田八段戦が2局続けて行われ、阪田勝ち、関根勝ちと1勝1敗に終わった。「大阪朝日新聞」に観戦記掲載。
11月4日 将棋同盟社は土居七段の八段昇段を決めた。土居はこの年9月の将棋同盟社定式会で八人抜きをして八段昇段規約に達していたが、まだ若い(29歳)ので機会を待って、ということだった。しかし、阪田八段に勝ったことで昇段することになる。ところが、師匠の関根は「自分のお鉢にかかわるから免状は出せぬ」と昇段を認めなかった。
11月21日付 「報知新聞」、棋戦「高段名手勝継将棋」開始。
12月1日付 「時事新報」、棋戦「名家敗退将棋」開始。
12月 関根八段、将棋同盟社を退社。「萬朝報」「将棋新報」の講評権を失う。その後任は土居に決まった。
7 1918 2月1日付 「小樽新聞」、棋戦「将棋新手合」開始。
6月15日、16日 阪田八段が上京、関根八段と対局して勝つ。
6月20日 関根八段を主幹とする棋士団体「東京将棋倶楽部」(柳澤伯の命名)が結成される。小野五平名人を名誉部員に、阪田八段を客員に、幹事として矢頭喜祐七段、村越為吉六段が決まった。総勢14人。
6月23日 東京将棋倶楽部の第一回手合会が芝高輪「萬清楼」で開催された。席上、関根八段対阪田八段戦が行われ、関根が勝った。本局が両者の最後の対局になった。平手に限っていえば、対戦成績は関根の4勝5敗に終わった。
10月13日 小野名人の米寿を祝う将棋界が芝高輪「萬清楼」で開催された。小野から免状を受けた者、関根派の棋士らが出席した。
8 1919 3月16日 土居七段、八段昇段披露会を催す。師匠の関根八段も出席、八段免状を与えた。
5月11日、13日~17日 大阪で催された木見金治郎七段昇格披露会の席上、阪田八段対土居八段戦が行われた。本局は"阪田流向かい飛車"で有名なだけでなく"阪田角損の一局"としても知られ、阪田が逆転勝ちした。13日からは場所を宝塚温泉に移して行われた。棋譜は「大阪朝日新聞」「大阪毎日新聞」に掲載された。
9月18日付 「読売新聞」、棋戦「高段名手勝継将棋」開始。
9 1920 1月22日付 花田長太郎六段、「東京朝日新聞」の棋戦「高段名手勝継将棋」に登場。結局、半年の間に22連勝して同一棋戦の連勝記録を樹立する。
8月4日 井上義雄八段逝去。56歳(数え)。井上は将棋だけでなく、囲碁、連珠も強く、「囲碁・連珠・将棋教授」の看板を掲げていた。関根八段からは先に「名人」にと薦められていたが、小野名人が亡くなる前に逝去した。
8月10日付 「朝鮮新聞」、棋戦「名家敗退将棋」開始。
10月6日 「萬朝報」の社長だった黒岩周六(号・涙香)逝去。将棋界の恩人の一人。探偵小説の翻訳でも知られ、「巌窟王(モンテ・クリスト伯)」「ああ無情(レ・ミゼラブル)」などで人気を集めた。ちなみに、五目並べを「連珠」と称したのは涙香。「高山互楽」の名で、初代連珠名人になった。
10月10日、翌年2月1日、3日~6日 小野名人の九十歳祝賀将棋大会が上野「常盤華壇」で開催された。席上、阪田八段(香落ち)対大崎熊雄七段戦が行われ、上手の阪田は「角頭歩突き戦法」を見せ、観客を驚かせた。翌10年2月1日から指し継がれ、大崎が勝った。
10 1921 1月13日付 「九州日日新聞」、棋戦「九州将棋大会高段特選将棋」開始。
1月29日 小野五平十二世名人逝去。91歳(数え)。翌30日付「大阪朝日新聞」に阪田八段の談話が掲載される。前年の小野の「九十歳祝賀大棋会」で、小野に次の名人は、「迷うことなく関根氏に御決定あるが安泰です」と重ねて進言した、と述べている。
2月4日 小野の後継名人に関根八段を推すことで各派が一致した。5日付の各紙は大々的に報道した。
5月8日 関根が十三世名人を襲位、東京将棋同盟社(土居派)、東京将棋研究会(大崎派)、東京将棋倶楽部(関根派)の補助の下に「関根名人披露将棋大会」を東京日比谷「大松閣」で催す。関西の阪田八段も上京して土居八段と席上対局を行った。(勝敗は決せず)
10月18日付 「山陽新聞」、棋戦「岡山将棋大会」開始。
10月26日付? 「九州日報」、棋戦「名家敗退将棋」開始。
11月8日付→12月10日付 「国民新聞」主催による「少壮棋士大決戦」(三派から一人ずつ)が連載される。関根派から木村義雄四段、土居派から金子金五郎四段、大崎派から飯塚勘一郎四段が出場。木村3勝、金子1勝2敗、飯塚2敗の成績で木村が優勝した。
11 1922 3月 長野県松本市で将棋雑誌「風雲天地新報」創刊。大正13年10月号から「将棋月報」と改題して昭和19年2月号で終刊。前田三桂の「失礼御免ヘタの横槍」などで知られた。
4月8日→4月13日 矢野逸郎七段還暦祝賀会(大阪市南区「大紙倶楽部」)の席上対局で、阪田八段対花田長太郎七段の香落ち戦が行われ、花田勝つ。9日は大阪朝日新聞本社で、10日からは箕面市「朝日倶楽部」で行われた。5月24日付から「大阪朝日新聞」掲載。
4月17日→4月21日 阪田八段対花田七段の平手戦が箕面市「朝日倶楽部」で行われ、花田勝つ。阪田の袖飛車に花田が逆転勝ちした。5月2日付から「大阪朝日新聞」掲載。
12 1923 2月 大崎七段の後援会「大崎会」、将棋雑誌「新棋戦」創刊。
3月17日付 「報知新聞」に東京の三派出場の棋戦「東西対抗報知将棋」開始。東軍を「東京将棋倶楽部」の部員、西軍を「東京将棋同盟社」の社員と「東京将棋研究会」の会員の連合軍とした。最初から大崎七段が7連勝した。
9月1日 関東大震災が起きる。焼かれなかった新聞社は、報知、東京日日、都の三社だけだった、という。最も打撃を受けたのは萬朝報で、これを機に三木愛花は退社した。最も早く立ち直ったのは大阪に大資本を持つ東京日日新聞と東京朝日新聞だった。
13 1924 2月13日付 「台湾日日新報」、棋戦「将棋戦譜」開始。
3月1日付 「新潟新聞」、棋戦「高段名手将棋争覇戦」開始。
8月11日 木村義雄六段、報知新聞社に入社。
9月8日 東京の棋士団体三派が合同して「東京将棋連盟」を結成。現在の日本将棋連盟はこの日を「創立記念日」と定めている。同日、大崎熊雄と金易二郎が八段に昇る。
9月 大阪の木見金治郎、八段に昇る。
10月16日付 「信濃毎日新聞」、棋戦「名家敗退将棋」開始。
14 1925 1月 土居八段主幹の将棋雑誌「将棋新誌」創刊。巻頭大震災のため大正12年8月号で終刊になった「将棋新報」の伝統を受け継ぐ。三木愛花も執筆した。
2月1日 花田長太郎、八段に昇る。
2月13日付→2月21日付 「報知新聞」の棋戦「東西対抗報知将棋(57回)」で、初めて持ち時間制を採用。各8時間、1分以内は加算しない。石井秀吉六段(香落ち勝ち)対根岸勇四段戦で、消費時間は石井3時間58分、根岸1時間15分。
3月12日付 「大阪朝日新聞」、「坂田八段をいよいよ名人に推薦 京阪神の多数有志から」の見出しで、阪田を名人に推薦するまでの経過を大きく報道。その理由には昨今の「八段乱造」を挙げた。後援者の柳澤保惠伯爵、日本麦酒の高橋龍太郎氏ら約80人の推薦に固辞していた阪田も「感激し遂に名人樹立を快受することとなった」。
3月13日 東京将棋連盟は「緊急評議員会」を開き、阪田八段の名人昇格を認めず、と決議。終生名人制で、関根名人が在位している現在、認められない、と。この結果、阪田とは絶縁状態に陥った。
3月15日 木見金治郎、大阪市北区「大江ビル」で八段昇格披露会を催す。東京からも土居八段、花田八段、木村七段が出席した。
4月10日 阪田、大阪市東区「堺卯楼」で、「名人推薦式及び祝賀将棋大会」を催す。
5月26日付 「東奥日報」、棋戦「本社主催県下選手五人抜将棋」開始。
8月18日、19日 愛宕山の東京放送局(JOAK)から開局記念番組として、初のラジオ対局が放送された。花田八段対木村七段(勝ち)の平手戦。講評は関根十三世名人。
15 1926 3月 昨年9月に八段昇段点を得ていたが、年若いという理由で辞退していた木村は、再び昇段点を得て八段に昇段した。4月13日付で免状を受ける。