日本将棋の歴史(6)

関根、将棊同盟社を退社して新団体結成

1909年(明治42年)に初めて誕生した本格的な棋士団体の将棊同盟社は、関根金次郎八段を中心棋士に、「萬朝報」記者の三木愛花が世話役を務めて運営されてきました。ところが、1917年(大正6年)に大問題が起き、関根と愛花との間に亀裂が走ります。その経緯を見ていきます。

関根、大一番で阪田に敗れる

大阪の阪田三吉八段は"打倒関根"を旗印にして戦ってきましたが、1913年(大正2年)に初めて関根に平手で勝ち、4年には小野五平十二世名人の許しを得て八段に昇進します。同年"将棋の殿様"といわれるほどの愛棋家・柳澤保惠(やなぎさわ・やすとし)伯爵は関根―阪田戦を企画しましたが、直前に関根が体調を崩して辞退します(関根が阪田の先手番を主張したが、認められなかったので対局を断った、という説もある)。そこで井上義雄八段と阪田が戦い、阪田が平手で勝ちました。
1917年(大正6年)に柳澤伯爵は関根―阪田戦をもう一度企画します。同年10月8、9日に行われた対局は、天下分け目の大一番として、新聞各紙が大きく取り上げました(棋譜は「大阪朝日新聞」連載)。本局に関根は敗れます。関根は阪田に敗れた場合、「萬朝報」「将棊新報」の講評権を手放すと、愛花に約束していたようです。

土居の八段昇進問題

関根の一番弟子の土居七段は、1919年9月の将棊同盟社の定式会で8人抜きして八段昇進規約に達していましたが、まだ29歳と若いのでもう少し待ってからということになっていました。
ところが、関根を破った阪田に対して、同年10月16、17日に平手で土居が勝ったことから、将棊同盟社幹部と土居の後援者は関根に八段昇進を迫ります。しかし、関根は「自分のお鉢に関係するから免状は出せぬ」と断りました。
当時、小野五平十二世名人は87歳(数え)の高齢で、次の名人について、関係者の間でいろいろな思惑がありました。八段は小菅剣之助(関根の兄弟子)、井上、関根、阪田の4人だけでした。このうち、小菅は実業界で活躍し、将棋界とは疎遠になっていましたので、井上、関根、阪田の3人の中から次期名人が決まると考えられていました。
このうち最有力候補だった関根にとって、新たに八段が誕生することは、自分の名人襲位に差し障ると考えて土居の八段昇段を認めませんでした。柳澤伯爵の企画で関根は井上と1915年(大正4年)12月に対局して1敗1持将棋、翌1916年5月にも1敗と、負けが続いたことも気掛かりだったかもしれません。
結局、将棊同盟社は関根の許しを得ないまま、土居の八段昇進を決定します(1917年11月4日)。反発した関根は翌12月に将棊同盟社を退社します。その結果、「萬朝報」「将棊新報」の講評権は、数カ月後に土居に移りました。その後、関根は土居の八段昇進を認め、1919年(大正8年)3月16日に催された八段披露会にも出席して免状を手渡しました。

関根、新団体「東京将棊倶楽部」を結成

将棊同盟社を退社した関根は、弟子の金易二郎七段らとともに1918年(大正7年)6月20日、新たに棋士団体「東京将棊倶楽部」(柳澤伯爵の命名)を結成します。新団体結成を伝える「東京朝日新聞」(6月21日付)の記事(原文のママ)は次の通りです。
《●高段棋客の新團體
    =東京將棋倶楽部成る
     ◇小野名人及兩八段を筆頭に
東都の高段棋客諸氏は二十日午後6時より日比谷大松閣に會し來賓として柳澤伯爵始め小野名人及び目下上京中の阪田八段出席して
▲懇親の宴 を張りたるが席上柳澤伯の發議にて當日の出席者一同を發起人として新團體を組織し益斯道の研究に努力する事に滿塲異議なく決定し伯爵の命名にて「東京將棋倶楽部」と稱する事となり主幹は關根八段之にあたり小野名人を名譽部員に阪田八段を客員に推薦し尚幹事として矢頭喜祐村越為吉兩氏を選び茲に棋界有力なる新團體成立するに至れり而して部員は専門棋客に限り一般同好家にて
▲希望の向 は會員として入會せしむる由なるが當日出席者にて部員たる棋客左の如し (名譽部員)小野名人(客員)阪田八段(主幹)關根八段(幹事)矢頭七段、村越六段(部員)七段矢島五香、七段藤内源三郎、七段金易二郎、六段村上桂山、五段花田長太郎、五段寺田梅吉、三段大塚藤右衛門、三段小泉兼吉、二段金子太平》
この記事とともに「◇集りし棋界の名手◇」 と題した参加者全員の記念写真が掲載されています。

東京将棋倶楽部結成を伝える「東京朝日新聞」の記事=1918年6月21日付
東京将棋倶楽部結成を伝える「東京朝日新聞」の記事
=1918年6月21日付