日本将棋の歴史(5)

井上八段の「将棊同志會」、阪田七段の「関西将棊研究会」

明治時代末期から大正時代中期まで、関根金次郎八段(のちの十三世名人)とともに並び称された井上義雄八段については、従来将棋史のなかで触れられることが少なかったので、井上の評伝と、その将棊団体「将棊同志會」を紹介します。

関根金次郎八段

井上八段略歴

1865年(元治〈げんじ〉2年)、山城国(現・京都)伏見町字油掛に生まれます。本名・池上益太郎。生家は扇子屋。1920年(大正9年)8月4日、56歳(数え。以下同じ)で亡くなりました。
8歳の時に伏見町在住の原田仁平二段に手ほどきを受けます。16歳で大阪の小林東伯斎八段(天野宗歩門下)から二段を許されます。18歳で三段、23歳で五段、28歳で六段、30歳で七段、1906年(明治39年)八段。連珠は八段、囲碁は四段。東京の自宅では「囲碁・連珠・将棋教授」の看板を掲げました。
○土居名誉名人の井上八段評
土居市太郎名誉名人の回顧録「思い出の五十年」(「近代将棋」連載)によると、「(井上八段の)棋風は非常にするどく、且つ策戦の駆引も巧みで、押しも押されもせぬ棋界の第一人者であった」「下手名人の称あり、駒落将棋は天下一品」だったそうです。
関根八段との対戦成績は、通算3勝3敗1持将棋と五分でした。ところが、人気という点では、関根にはかなわなかったのです。
「井上先生は品行方正で一切悪いうわさを聞かないのに、関根先生に比し人気の立たなかったようである。その理由は気持が陰気で消極的で、芸能人に必要な楽天的のところが少しもない」ところにあった、と書き残しています。

将棊同志會の結成

初の棋士団体「将棊同盟會(のち将棊同盟社)」は1909年(明治42年)8月8日に結成されましたが、翌1910年1月16日に井上八段、矢頭喜祐六段らが脱退して新たに「将棊同志會」を結びました。
1908年(明治41年)9月に「萬朝報」が新聞棋戦を開始してから、ほかの新聞社でも棋戦を立ち上げる動きが出てきました。元「国民新聞」社員で、新聞販売店をしていた佐藤功二段(のちに「棋狂老人」の筆名で観戦記を執筆)から国民新聞でも棋戦を企画し、最初に関根対井上の八段対決を掲載したい、という要請がありました。
関根、井上は対局を了承しましたが、将棊同盟社の幹事・堀川英歩五段、岡村豊太郎四段、奥野一香二段から、こういう大事なことは個人交渉ではなく、同盟社を通してほしい、承認できない、との強硬意見が出てきました。
同盟社の世話役だった愛花は、「萬朝報」の記者でもあり、以前から関根―井上戦の対局を希望していましたが、実現していませんでした。恩義のある愛花の立場を配慮しての意見で、これほど反対意見があるのでは、と関根は対局中止を決めました。
反対に井上は、この機会に関根を中心とした同盟社を脱退し、国民新聞を背景に新たに「将棊同志會」を結成しました。矢頭喜祐六段、勝浦松之助六段、村上由之助五段、大崎熊雄二段、溝呂木光治初段らが参加したため、半年も立たずに棋士団体は分裂してしまいました。

関西の棋士団体「関西将棊研究会」結成

関西では大阪朝日新聞社の後援により、阪田三吉七段を主将にした棋士団体「関西将棊研究会」が1910年(明治43年)10月9日に結成されます。
阪田はこの年の7月7日付「大阪朝日新聞」紙上で、自身の七段昇段を宣言していました。小見出しには「▲不服あらば誰でも来い」とあります。

六段時代の阪田三吉
六段時代の阪田三吉

阪田、七段昇段を発表=1910年7月7日付「大阪朝日新聞」
阪田、七段昇段を発表=1910年7月7日付「大阪朝日新聞」