日本将棋の歴史(24)

第4期、第5期名人戦も木村留位

戦時下に行われた第4期名人戦、第5期名人戦は制度を変えながら進み、ともに木村義雄名人が留位しました。

【第4期名人戦は挑戦制度を変更】

1942年(昭和17年)から行われた第4期名人戦は、挑戦制度が変更されました。予選(半年に1回)の優勝者は、まず木村名人と三番勝負の予備手合(半香二番勝負)を行い、勝ち越さなければ挑戦権を得られなくなりました。 第1回予選では、関西の大山康晴五段(19歳)が登場し、1回戦で金易二郎八段に勝ち、続く2回戦で‟徹夜の神様"と称された斎藤銀次郎八段をも破りました。 第4期名人戦第4回予選 師匠の木見金治郎八段を囲んで。左から大野源一五段、大山康晴6級、升田幸三二段、木見、大野夫人(綾子)、木見夫人(ふさ子)=1935年 当時、広島で軍隊生活を送っていた兄弟子の升田幸三六段は、この吉報に大山に宛てて、すぐにはがきを送りました。その文面には「斎藤八段をねじ伏せた。天晴れ(あっぱれ)である」とのみ、万年筆の太い文字で書いてありました。大山にとっては、だれの誉め言葉よりもうれしかったそうです。 さて、予選(16人のトーナメント戦)で4人の八段が優勝しましたが、いずれも予備手合で木村名人に勝ち越すことができず失格しました。この結果、第4期名人位も木村が留位しました。 第4期名人戦第1回予選第4期名人戦第1回予選 第4期名人戦第2回予選第4期名人戦第2回予選 第4期名人戦第3回予選第4期名人戦第3回予選 第4期名人戦第4回予選第4期名人戦第4回予選 ※表組みは当時の「将棋世界」からスキャンしたもの 4回行われた予選の優勝者との三番勝負は次の通り。

※木村名人から見た勝敗。△は木村の香落ち勝ち、▲は木村の香落ち負け。
第1回 萩原 淳 八段 千△○
※第1局は香落ち千日手
第2回 大野 源一八段 ▲○千△
※第3局は平手千日手
第3回 花田長太郎八段 △○
第4回 坂口 允彦八段 △○

【「准名人獲得戦」の開催】

第4期名人戦で挑戦者が出なかったため、七番勝負も行われなかったのです。その代償として、毎日新聞は「准名人獲得戦」という新棋戦を始めました。その方式は、予備手合に出場した萩原、大野、花田、坂口の各八段の四強トーナメントで勝ち上がった優勝者が、木村名人と平手の三番勝負を行い、2勝すれば九段位に推挙して「准名人」の称号を贈る仕組みでした。 江戸時代から明治期には名人を九段に格付けしていたため、八段を「准名人」と呼んでいましたが、公式の称号ではありませんでした。将棋大成会は1943年(昭和18年)2月に名人を十段に格上げして八段との間に「九段」を設定する決議をしていました。この新棋戦で初めて九段の「准名人」を実現しようという企画でした。 四強戦は、1944年(昭和19年)秋からまず大野―花田戦が行われ、大野勝ち。続く坂口―花田戦は坂口勝ち。大野―坂口の決勝戦は坂口が勝ち、優勝しました。

優勝した坂口八段=『写真でつづる将棋昭和史』から 優勝した坂口八段=『写真でつづる将棋昭和史』から

木村と坂口の平手三番勝負は1945年(昭和20年)3月から始まり、空襲警報下の騒然としたなかで行われました。坂口先勝のあと、木村が2連勝しました。この結果、坂口八段は「九段准名人」という史上初の称号を惜しくも逸したのです。 第1局の対局途中、3月10日には東京大空襲にも遭いました。連日の空襲で指し掛け、指し継ぎの連続で、一カ所で指し終わったことはなかったそうです。 毎日新聞は同年3月16日付から「准名人獲得戦」第1局の連載を始めましたが、同月21日付の第5譜(43手まで)を載せたところで、以後将棋欄が掲載されなくなり、23日付で「都合により当分の間囲碁将棋を休載する」との断り書きが載りました。

【第5期名人戦も木村名人留位】

1944年(昭和19年)から行われた第5期名人戦の挑戦制度は、さらに簡素化することになりました。つまり、予選を撤廃し、直ちに挑戦予備試合を行う、というものです。 その方法は、まず7人の成績優秀者(出場順に大野八段、金子金五郎八段、萩原八段、塚田正夫八段、花田八段、坂口八段、加藤治郎七段)を選抜、順に木村名人と三番勝負を行って、指し分け以上の成績を取れば挑戦権の有資格者と定め、何人か有資格者が出れば、勝ち上がった棋士を挑戦者にする、というものです。 なお、対局の手合は、(木村名人から見て)香落ち、平手、振り駒の順で行われます。もし、挑戦者が一局目の香落ちで敗れた場合は、その時点で失格になります。 しかし、1945年(昭和20年)に入り、戦局は激化。対局は途中で不可能になり、第5期名人位も木村名人が留位しました。

【木村名人の述懐】

このころが全盛期で"常勝将軍"とうたわれていた木村は、のちに次のように語っています。(「週刊将棋」1984年〈昭和59年〉10月10日号"連載インタビュー 木村十四世名人に聞く⑥"から) 第四、五期名人戦は挑戦者手合いなし 《名人戦(第3期...注)が終わった後、毎日新聞社(注・当時は東京日日新聞東京本社)の高田元三郎さん(注...代表取締役社長)が、慰労のために一席設けてくれたときにしみじみ言ってたね。「木村さんに勝ってられたんじゃあ、毎日の名人戦もしようがない」って。ひどいこと言うんですよ、ねえ。 それは阿部真之助も黒崎貞治郎も言ってたね。もう少し波乱がなけりゃ面白くない、と。それで、次の名人戦は今までの名人戦じゃ駄目だと言うんですよ。 戦時下の特例として組織を変えると。「今度は最初から出てくれ」と。「このままいったんじゃ挑戦者が決まる前に戦争が終わっちゃうかもしれない。それでは名人戦も駄目だから」と。最初に出るのは今までにないことでしょ。 でも、あの時分は新聞もいよいよタブロイド版になるようなころだし、私の方はとにかく次の契約をしなけりゃいけないから"大成会として聞けるものは聞きましょう"ということになった。で、何べんか折衝したね、黒崎さんと。 それで半年ごとに一度、四期に分けることになった。そして萩原、大野、花田、坂口の四人が予選を勝って、私と三番勝負をやった。勝ったものが挑戦者になるということだったんだが、私がみんな負かしちゃったんだよ。 それで、第五期は最初から七人出て、私と三番勝負をやるということになった。これも僕がずーっと負かしちゃったんだ。随分無理なことをやらせるんで、要するに僕が負けるかもしれない、という将棋をやらなきゃ面白くないというわけだ。それが負けないうちに終戦になっちゃったんだ。》