日本将棋の歴史(15)

神田事件 ~日本将棋連盟の分裂まで~

 「神田事件」とは、実力名人戦を開始した1935年(昭和10年)に神田辰之助七段の八段昇段をめぐって日本将棋連盟(旧)が分裂した事件です。
 日本将棋連盟の評議員会(注)は、大阪朝日新聞社・東京朝日新聞社から申し入れのあった神田七段対「全七、八段戦」で、当時の規定で平均90点近い成績を取れば、神田の八段昇進を認めるということになっていました。ところが、全対局を終了してから八段昇進問題が紛糾し、ついに日本将棋連盟の分裂騒動にまで発展してしまいます。
[注]金易二郎会長(八段)木村義雄副会長(八段)金子金五郎幹事長(八段)の三役と七、八段全員に五、六段の若干名、顧問らで構成される議決機関。

【神田辰之助・略歴】

1893年(明治26年)2月22日~1943年(昭和18年)9月6日。贈九段。兵庫県武庫郡本庄村字深江(現・神戸市東灘区)生まれ。第3期名人戦で挑戦者になりますが、木村名人に0―4で敗れます。神田鎮雄七段(故人)は次男。

【事件の背景】

 大阪で「名人」を僭称していた阪田三吉は、大阪朝日新聞社の嘱託を続けてきましたが、1933年(昭和8年)9月5日付で正式に退社します。
 同年10月11日、大阪朝日新聞社は神田七段を実質上の盟主とする棋士団体「十一日会」を発足させます。参加者は神田のほか早川隆教八段、村上真一、藤内金吾両六段、中井捨吉、小林慶之助、高浜作蔵、林田竹松、柊吉之助、小笹吉次郎各五段の10人。

「神田七段対連盟全七段大棋戦」第1局第1譜=「大阪朝日新聞」1934年8月21日付
「神田七段対連盟全七段大棋戦」第1局第1譜
=「大阪朝日新聞」1934年8月21日付

 翌1934年(昭和9年)、大阪朝日新聞は阪田の代わりに神田を売り出すべく、日本将棋連盟に神田と同連盟所属の全七段7人との対局を申し込みます。同年7月25日から9月13日まで7局行われますが、神田は3勝4敗と負け越してしまいます。対局順に成績は次の通りです(神田から見て)

(1) 宮松関三郎七段  ● 
(2) 渡邊 東一七段  ● 
(3) 萩原 淳七段  ● 
(4) 溝呂木光治七段  ○ 
(5) 齋藤銀次郎七段  ● 
(6) 小泉 兼吉七段  ○ 
(7) 山本 樟郎七段  ○ 

 画期的な新棋戦「第一期名人決定大棋戦」(実力名人戦)が東京日日新聞・大阪毎日新聞の主催で1935年(昭和10年)に開始されたことにより、日本将棋連盟としては、ほかの有力新聞社からの新棋戦企画をできるだけ受け入れる意向でした。

新棋戦「神田七段対全七八段戦 熱血譜」の第1局第1譜、対溝呂木光治七段戦=「大阪朝日新聞」1935年7月2日付
新棋戦「神田七段対全七八段戦 熱血譜」の第1局第1譜、
対溝呂木光治七段戦=「大阪朝日新聞」1935年7月2日付

 大阪朝日新聞社・東京朝日新聞社は前年の全七段戦に続き、神田七段と連盟所属の全七段、八段の合計14人との対局を申し込みました。そのうえ、好成績であれば八段昇格を認めてほしい、という要望も含まれていました。朝日側は、何とか神田を八段にして新名人を決定する「八段特別リーグ戦」に参加させたかったのです。
 同年5月、評議員会が開かれ、神田七段対「全七、八段戦」(紙面の棋戦名は「神田七段対全七八段戦 熱血譜」)は承認されます。ただし、当時の規定で平均90点近い成績を取れば神田の八段昇格を認める、という決め事が議事録をとっていないこともあり、その後紛糾する火種になったのです。

【対局結果】

 全14局の対局は1935年6月8日から同年10月19日まで、大阪・箕面公園(現・大阪府箕面市)「朝日倶楽部」ですべて行われ、神田が10勝4敗(当時の規定で、平均点92.8点)という好成績を挙げます。対局順に成績は次の通りです(神田から見て)

(1) 溝呂木光治七段  ○  120点
(2) 大崎 熊雄八段  ○  100点 香落ち
(3) 花田長太郎八段  ○  140点
(4) 山本 樟郎七段  ●  20点
(5) 小泉 兼吉七段  ●  20点
(6) 齋藤銀次郎七段  ○  120点
(7) 木見金治郎八段  ○  100点 香落ち
(8) 木村 義雄八段  ○  140点
(9) 萩原  淳七段  ●  20点
(10) 金子金五郎八段  ○  140点
(11) 宮松関三郎七段  ○  120点
(12) 土居市太郎八段  ○  140点
(13) 渡邊 東一七段  ●  20点
(14) 金 易二郎八段  ○  100点 香落ち
対八段 7戦全勝 (そのうち香落ち番3局)
対七段 3勝4敗
合計 10勝4敗 平均点92.8点

【評議員会の紛糾】

 神田七段の八段昇進を審議する評議員会は11月1、4、6、15、18日の計5回に及びますが、結論はまとまらず八段昇進反対派の気勢がますます上がっていくばかりでした。
 七段陣の反対派からは、もともと昇進の話を聞いていない、金子幹事長は朝日側に公約したのか、契約書がないから無効だ、などの意見が相次ぎました。ここまでこじれた要因は、(1)八段陣には全勝でも七段陣に2年連続で負け越したこと(2)十一日會という別団体に所属する、性格的にもふてぶてしい神田七段への反発(3)中島富治日本将棋連盟顧問への反感(4)八段と七段との待遇に大きな格差があったこと(5)木村副幹事長と金子幹事長との対立――などが挙げられます。

【ついに分裂へ】

 1935年11月19日、八段昇格賛成派の花田長太郎八段、金子金五郎八段(日本将棋連盟幹事長)、中島富治(日本将棋連盟顧問)は日本将棋連盟脱退を表明します。同月21日、新たに日本将棋革新協会を結成し、神田の八段昇格を認めます。神田八段と十一日會も合流します。

日本将棋連盟の分裂を伝える「東京朝日新聞」の記事=1935年11月20日付
日本将棋連盟の分裂を伝える「東京朝日新聞」の記事=1935年11月20日付

分裂騒動を大きく報道した「大阪朝日新聞」=1935年11月20日付
分裂騒動を大きく報道した「大阪朝日新聞」=1935年11月20日付
 この「大阪朝日新聞」には"子供の兄弟喧嘩"と題した関根金次郎名人の談話が載っています(原文のママ)
《困つたことになりました、かういふ問題が起るのも無理はない、初めから決つてゐたことなのだからすらすらと認めておけばよささうなものだが、とかく若いものは議論が多くてさすがの中島顧問も愛想をつかしてしまつた形になりましたが、私から見れば多勢の子供の間に兄弟喧嘩が起きたやうなもので、なあにそのうちまた一緒になつて棋道のために盡してくれますよ、またその時は中島さんも骨折つて呉れるでせう、さう心配するほどのこともありますまい》
 両派に直弟子のいる関根名人は、対応に苦慮しながら、合同への道を探っていきます。

【八段昇進賛成派の脱退を伝える「将棋日本」の記事】

 この問題は、中島が事実上の主宰を務める月刊誌「将棋日本」1935年12月号の"棋界ニュース"に詳しい記事が掲載されています(原文のママ)
《中島、花田、金子三氏脱退し 將棋聯盟遂に分裂す
 大阪朝日専属の神田七段は、六月以降の對聯盟全七、八段戦に於て、十勝四敗の好成績を収めた。よつて聯盟に於てはこれが昇段問題につき、十一月一日以来前後五回に渡り評議を続けたが、賛否兩論に分れ大紛糾を見るのみにて一向具體的な進捗に至らず、當然の理として神田七段の昇段を説く中島顧問、幹事長金子金五郎八段、花田八段の三氏は、この聯盟の空氣を潔よしとせず、十一月十九日聯盟に脱退を通告すると共に、神田如水會館に於て聲明書を發表し棋界に空前の大波瀾を巻起した。
 これに對し聯盟に於ても強硬態度をもつて臨み、右三氏の辭任及び脱退を認め、除名することゝなつた。正に將棋王國を建設しつゝあつた日本將棋聯盟はこゝに懸心的指導者として、聯盟の今日を築いた中島顧問及び花田金子兩八段の中堅を失つて分裂することゝなつた。
 これによつて東日、大毎のファン待望の聖戦「名人決定戦」は大支障を來すに至つた。

脱退三氏の聲明書
 中島顧問
 先日來日本將棋聯盟において神田七段の昇格問題について空前の紛糾を生じ、遂に聯盟の中心中の中心たる花田、金子兩八段の脱退を見るに至つた、この問題たるや昭和十年五月棋戦實行決定の評議員會において神田七段がほゞ昇段点(九十點)を得たら昇段を推薦することに議決したもので、この間何等の疑惑を許さゞる處である、しかるに今となつてこの決議に對して異議を生ずるが如きは實に不可解である、かゝることは新聞雜誌を天下になせる公約を裏切るものであり聯盟の信用を根本的に破壊するものである、多年聯盟の顧問として聯盟の行動を合理的ならしめんと專念せる私は折柄棋道更革に伴ふ名人決定戦の開催中でもあり、聯盟がよく棋界の大局を達見し善處して棋道の進展を阻害せざるべきを信じ百方斡旋に努めたにも拘らず事態かゝる情勢に立至つては最早依然としてその地位にあるを潔しとしないため本日金會長に辭意を通告した。
 花田、金子兩八段
 前略神田七段が九十三點に近き成績をあげたる今日において聯盟内にこの昇段に異議を唱ふるものあり、中には評議員會の決議を否認せんとする者を生じたるは意外の一語に盡きる、我々はかゝる不信の行動をあへてせんとする聯盟内一部の態度には一驚の外ない、如何に隠忍するも會内に留まることはわれわれの信念が許さぬので本日金會長宛脱退の旨を通じた、多年艱苦を共にし棋界のため手を握って來た僚友と別れることは堪へ難いが正義のためには真に已むに已まれぬ處である。
 聯盟の聲明書
 今回花田、金子兩八段及び中島顧問の連名を以て突如本聯盟脱退の旨を通知し來れり(中略)兩氏は先に評議員會の決議を以て神田七段の成績昇段點に達したる場合は八段昇格を公約したに拘らず同氏が昇段點を獲得せる今日これが實行を遷延せるは違約行為なりといふも、本聯盟評議員會において未だかゝる神田氏の昇段について豫約的議決をなしたることなし、現に十一月一日より連続三回の評議員會席上において金子幹事長は大朝社に對し何等の約束をなしたることなしと公言し、第四回評議員會の席上において初めて昇段認定の私約をなしたる旨釋明せり、しかも神田七段が昨年上京の際全七段に對して負越しの成績を殘し今回の場合に於ても四對三で一點負越しせり、故に今回の結果のみを以て直ちに八段を承認するは本聯盟の統制上今後に悪結果を殘す恐れあり、よつて何等か圓滿の解決策を研究中、突然花田、金子両氏が脱退を聲明したるは不可解の態度といはざるを得ず、聯盟は公正の精神を以て結束を強固にし、今後の難局に善處せんことを期す、切に大方各位の御諒承を乞ふ

十一月廿日 聯盟會長 金 易二郎

日本将棋革新協会の誕生。左から塚田正夫六段、坂口允彦六段、金子八段、神田八段、花田八段、小泉兼吉七段、建部和歌夫五段=1935年11月21日、東京市赤坂山王「花の茶屋」で。「将棋日本」1935年12月号口絵掲載
日本将棋革新協会の誕生。左から塚田正夫六段、坂口允彦六段、金子八段、
神田八段、花田八段、小泉兼吉七段、建部和歌夫五段=1935年11月21日、
東京市赤坂山王「花の茶屋」で。「将棋日本」1935年12月号口絵掲載

 日本將棋革新協會の結成
   神田氏の八段昇格を認むる
 日本將棋聯盟を脱退した、花田、金子兩八段、小泉七段、坂口、塚田兩六段、建部五段の六氏は日本將棋革新協會を組織し二十一日早朝一同打揃つて明治神宮に參拜し、午後より赤坂山王花の茶屋で結成式を行ひ同時に神田七段の八段昇格を認む。
 續いて加藤治郎、奥野基芳兩四段も聯盟を脱退し、打揃つて日本將棋革新協會に入會した。
 斯くて新團體は、花田、金子兩八段以下四段迄八名となり、何れ劣らぬ當千の猛者を擁して無敵の陣容を誇っている。
準會員(三段―初段)は
  三段 小堀清一(金子門)
  二段 荒巻三之(花田門)
  同  土山惠三(山本門)
  初段 宮本弓彦(小泉門) 》

 こうして激しく対立した三団体は、統一されるまで半年以上の歳月を必要としたのです。