日本将棋の歴史(11)

"将棋の読売"大躍進!

【八段同士の大型棋戦開始】

大正時代の末期、棋士として実際に活躍していた八段は、土居市太郎、大崎熊雄、金易二郎、木見金治郎、花田長太郎、木村義雄(1926年〈大正15年〉4月13日に八段免状授与)の6人でした。関根金次郎名人は、新聞棋戦に参加するというより、その優勝者との模範試合を行うことが多かったのです。"八段乱造"を非難して名人を僭称した阪田三吉は、東京将棋連盟と絶縁状態になり、孤立していました。
ところが、八段が増えたことにより八段同士で戦う大型棋戦が続々と誕生することになります。その結果、将棋界は飛躍的に発展したのです。
まず動き始めたのが月刊誌「講談倶楽部」(大日本雄辯會講談社=現・講談社=刊)で、全八段出場の「平手對局八段總出勝繼大棋戦」を企画し、1927年(昭和2年)3月号から連載しました。観戦記は生駒翺翔(いこまこうしょう。報知新聞記者)が執筆しました。
新聞社では、読売新聞が最も早く八段同士の大型棋戦を始め、大々的に取り上げました。同年1月18日付から始まった「東西將棋八段優勝手合棋譜」(全八段出場・花田八段優勝)では、従来の一段扱いから四段扱いのスペースに拡張しました。対局料も八段一人一局75円で、大幅な増額になりました。

全八段出場の大型棋戦開始を伝える読売新聞観戦記。「鐵假面子(鉄仮面子・てっかめんし)」は、経済誌「ダイヤモンド」創業者・石山賢吉の筆名=1927年1月18日付
全八段出場の大型棋戦開始を伝える読売新聞観戦記。
「鐵假面子(鉄仮面子・てっかめんし)」は、経済誌「ダイヤモンド」創業者・石山賢吉の筆名
=1927年1月18日付

優勝した花田八段は、模範対局の関根名人との香落ち戦には敗れました。

以後、報知新聞による全八段出場「報知将棋大リーグ戦」(同年1月22日付~)、東京朝日新聞による名人八段出場の対抗戦「本社将棋新争覇戦」(同年2月2日付~)、国民新聞による全八段出場「名家敗退国民新棋戦」(1929年〈昭和4年〉3月31日付~)など、各新聞で大型棋戦が続々と開始されました。

【「読売新聞」の成り立ちと発展】

「読売新聞」は1874年(明治7年)11月2日に創刊されました。明治時代は尾崎紅葉の「金色夜叉」や高山樗牛の「瀧口入道」などを連載して"文芸新聞"といわれていました。
 1924年(大正13年)2月25日に第7代社長に就任した正力松太郎は、さまざまな新企画を立てて実行していきます。
例えば、ラジオ版の創設(1925年〈大正14年〉11月15日付)、対立していた本因坊秀哉(本名・田村保寿)と棋正社の雁金準一七段との囲碁対局を実現(1926年〈大正15年〉9月27日付から連載)、昭和に入ってからも全米選抜プロ野球団の招聘(1931年〈昭和6年〉10月)、再度の招聘(1934年〈昭和9年〉11月)、大日本東京野球倶楽部(現・読売ジャイアンツ)の創設(同年12月)など、数多くの話題を提供しました。その結果、正力社長の就任前は約5万5千部だった発行部数は、1938年(昭和13年)には100万部を超える大躍進を遂げたのです。

【読売新聞・矢野営業局長からの申し入れ】

 読売新聞社は1926年(大正15年)に正力社長の企画による囲碁の本因坊秀哉と棋正社の雁金七段との対局で話題を集め、部数を急速に伸ばしました。その後、同社の矢野正世(やのまさよ。筆名・谷孫六)営業局長から将棋でも大規模な企画を立てられないか、と土居市太郎八段に申し入れがありました。土居は、将棋界で既に重きをなしていた中島富治評議員に矢野局長との交渉を依頼しました。
 両者による打ち合わせの結果、前述したように「東西將棋八段優勝手合」(全八段出場のトーナメント戦)を行い、優勝者には関根金次郎名人との香落ち戦を指すことが決まりました。講評は関根名人。対局料は八段一人一局75円に大幅アップし、さらに五、六、七段のために別に勝ち継ぎ戦を設け、一人一局の対局料を平均25円で合意しました。
 矢野正世営業局長の働きについて、読売新聞の観戦記者だった菅谷北斗星が「将棋世界」1941年(昭和16年)4月号「盤側の思ひ出(4)」のなかで、阪田三吉への出馬依頼とともに、その間の事情を明らかにしています(原文のママ)。
《私が最初に坂田氏を大阪府下吹田の町に訪ねていつたのは、昭和三年の秋であつた。その頃讀賣新聞社には矢野正世氏が營業局長として辣腕を揮つてゐて、この時代、將棋のことには主として、矢野氏が關係してゐた。例へば讀賣新聞最初の劃期的棋戰であつた『全國八段争覇戰』は矢野氏と土居八段と中島富治氏の聯鑑で、出来上つた樣に思ふ。
 この『全國八段争覇戰』の企劃が大ヒットとなり、非常に反響を呼んだところから、眠れる獅子(當時よくそんな形容詞を坂田氏の上につけてゐた)坂田三吉氏の蹶起を促す段取りとなるのは、將棋の企劃としておよそ定跡であらう。ある日矢野氏が私を呼んで、
『どうだい、大阪に遊びにいつて來ないか、二、三日。』
 と言つた。私は
『は、はア、愈々坂田と來たな』
 と直感したが
『大阪つて、何です?』
 としらばくれて問ひ返すと、
『とても一度や二度ぢや出て來まいが、坂田に渡りをつけてみたらどうだい。』
 と言ふのだつた。
 謎の坂田、スフヰンクスの坂田! 引つぱり出してやらう、とは最初から覺悟してゐたが、坂田氏は當時『大阪朝日』に居城を構へてゐた。當時の『讀賣』ではとても齒が立つまいと思つてゐたが、それでも石の上にも三年だ、十年計畫で引つ張り出してやれ、と私は思つた。嘘でない、眞實最初から十年計畫を立てたのだ。》
 この十年計画が実って1937年(昭和12年)に阪田三吉―木村義雄の「南禅寺の決戦」、阪田三吉―花田長太郎の「天龍寺の決戦」が実現したのです。

土居市太郎八段(左)―金易二郎八段戦を観戦する菅谷北斗星=1937年2月、東京都渋谷区の読売新聞対局場で。『写真でつづる将棋昭和史』(毎日コミュニケーションズ=現・マイナビ出版=刊)から
土居市太郎八段(左)―金易二郎八段戦を観戦する菅谷北斗星=1937年2月、
東京都渋谷区の読売新聞対局場で。『写真でつづる将棋昭和史』
(毎日コミュニケーションズ=現・マイナビ出版=刊)から

【観戦記文学の草分け・菅谷北斗星の登場】

菅谷北斗星
菅谷北斗星

 菅谷北斗星(すがや・ほくとせい)は1895年(明治28年)11月27日、栃木県生まれ。本名・要。観戦記文学の草分け。県立栃木中学校から早稲田大学文学部英文科に学びます。
 大正末期に大崎熊雄八段(贈九段)の助手として観戦記などを執筆するようになります。大崎は日露戦争(1904年〈明治37年〉~1905年〈明治38年〉)で右腕を負傷したため自分で書くことができなかったのです。
 その後、文才を認められた北斗星は、1927年(昭和2年)に読売新聞社に入社して同年4月24日付から観戦記を連載、一人で書き続けます。北斗星は正力社長の信頼を得て、次々に新企画を立てて、1935年(昭和10年)に名人戦が始まるまでは"将棋の読売"とうたわれたのでした。戦後はタイトル戦「九段戦」「十段戦」の創設に力を尽くしました。
 1962年(昭和37年)1月21日、66歳で亡くなりました。日本将棋連盟は生前の功績に報いるため「名誉七段」の免状を贈りました。
 著書に『将棋名匠逸話』(大崎八段との共著)『将棋の話』『将棋陣太鼓』『将棋五十年』『菅谷北斗星選集 秘録篇・観戦記篇』などがあります。
新聞観戦記の始まりについて、北斗星が座談会「觀戰記と鑑賞心」のなかで次のように語っています(「将棋世界」1950年〈昭和25年〉11月号。原文のママ)
《菅谷 觀戰記の始まりだがね。大崎八段(注...大崎熊雄贈九段のこと)が僕に相談して「どうしたら面白く讀ませることが出來るだろう」と言うんだ。いろいろ考えた末、會話を入れ将棋の芝居にしなければ駄目だということを思いつき、時事新報でやつた。これが觀戰記の始まりなんだ。觀戰記が盛んになつて來たのはそれからですよ。大崎さんの功績は大きい。》

【読売新聞社主催「木村金子十番将棋」】

「木村金子十番将棋」の開催を伝える読売新聞記事=1933年(昭和8年)2月2日付
「木村金子十番将棋」の開催を伝える読売新聞記事=1933年(昭和8年)2月2日付

 金子金五郎七段は1932年(昭和7年)12月25日に八段昇段の資格を得て、木村義雄八段に追い付きます。「読売新聞」はこの機会に「木村金子十番将棋」を企画します。結果は木村が4連勝した段階で打ち切りになります。観戦記は1933年(昭和8年)3月2日付から連載されました。
 北斗星はのちに観戦記者座談会(「将棋世界」1941年〈昭和16年〉8月号。原文のママ)のなかで、最も印象深かった対局として、この十番将棋の第四局を挙げています。
《金子さんの七段當時、八段全部を負かして、八段になつた最初、木村さんと五番勝負(注...十番将棋の誤り)を行つたが四番棒に負けた時のことだ。あの中二番は勝将棋だつたんだがね、その四番目の對局が濟んで歸る時、あの靑山の通りを一緒に歩いたんだが、秋の木の葉が、バラバラと散る夜だつた。突然、金子さんが立留つたかと思ふと「アツ、大變だ。申譯ない」と落涙してね。「あそこを、あゝ指せば勝ちぢやないか......」と云ひ出した。そして二人ですぐ引返して駒を並べて調べたんだが、あの時ほど心を撃たれたことはなかつたね》
 この十番将棋については、木村も触れている。(「週刊将棋」1984年〈昭和59年〉8月15日号"連載インタビュー 木村十四世名人に聞く(2)"から)
《読売に菅谷北斗星(観戦記者の祖)というのがいた。この人は金子さんと肝胆相照らしてたんだね。金子さんは癖のある人だ。それが、人によっては喜ぶんだ。
 北斗星は、私を負かせたいんだ。それで、十番将棋をやったんだけど私が負けないから途中でやめちゃってるよ。しまいまでやらせてくれないんだ。花田さんと十番将棋をやったとき(昭和二年)も一番、私が勝ったらやめちゃったんだ。
 だけどね、金子さんは何か一本、筋の通った男ですよ。》

読売新聞社主催による戦前の主な棋戦は次の通りです。
・「花田木村兩八段の爭ひ十番手合」 ☆木村八段の1勝で打ち切り
・「名人八段五人抜大棋戦」
・「日本選手権爭奪大棋戦」 ☆木村八段優勝
・「木村金子十番将棋」 ☆木村八段の4連勝で打ち切り
・「名人八七段勝抜戦」
・「坂田木村大棋戦」(南禅寺の決戦) ☆木村八段の勝ち
・「坂田花田大棋戦」(天龍寺の決戦) ☆花田八段の勝ち
・「九段設定戦」