日本将棋の歴史(7)

小野名人逝去、関根が十三世名人に

小野十二世名人、91歳(数え)で逝去

家元出身以外で初の名人・小野五平十二世名人が1921年(大正10年)1月29日に91歳(数え)で亡くなります。小野は、思想家の福澤諭吉、文部大臣などを務めた芳川顕正、統計学者の柳澤保惠、作家の幸田露伴ら著名人や知識人とも親交が深く、西洋将棋(チェス)も愛好しました。

▼小野五平十二世名人略歴
1831年(天保2年)10月6日生まれ。阿波国脇町(現・徳島県美馬市)出身。幼名は土井喜太郎。"幕末の棋聖"天野宗歩から指導を受ける。1860年(万延元年)三段、1861年(文久元年)四段、1863年(文久3年)五段、1867年(慶応3年)六段、1878年(明治11年)七段、1880年(明治13年)10月八段、1900年(明治33年)5月8日に名人披露会開催。1921年(大正10年)1月29日逝去、91歳(数え)。

小野十二世名人
小野十二世名人

▼訃報記事
1921年1月30日付「大阪朝日新聞」の小野の訃報記事に阪田三吉八段の談話が掲載されています(原文のママ)。ここで阪田は、小野に次期名人に関根を推すことを強く勧めています。記事のなかでは、「迷ふ事なく關根氏に御決定あるが安泰です」と重ねて進言したと語り、「関根名人」襲位を明確に支持しています。
《 『 成 程 名 人 』  坂田八段の談
『昨年十月名人が九十歳祝賀大棋會に私が参加した際、翁は私に對(むか)つて「俺(わし)は若い時にある暗示によつて九十一、二歳が定命といふ事を感知し確信してゐる、今度の會後名所などを巡歴し度い就いては名人の繼承の事も生あるうちに考慮して置かねば甚だ心懸りだ」との事に私は先輩關根八段が繼ぐの至當なる事を力説しました、現今棋壇に立つものにて準名人の八段格は氏を除きて土居氏と自分だけで土居氏が關根門下の人なればこれに異存ありとも想はれぬ、「迷ふ事なく關根氏に御決定あるが安泰です」と重ねて進言した事でしたが、其時の翁が言筬をなして長逝されたのは棋界の為め痛惜に堪へませぬ》
小野は阪田の進言に対し、同意しませんでした。
小野が十二世名人を襲位し、1900年に名人披露会を催した際、関根七段(当時)には招待状が送られませんでした。腹を立てた関根は、小野に私とどちらが強いか決めようと果たし状を送りました。結局、関根は小野の名人襲位を承諾して披露会にも出席しました。また、関根は大橋本家の十二代宗金(五段)から免状発行権を譲り受けていたので、小野とは別に免状を発行していました。そうした出来事もあって小野は、自分が八段免状を授けた阪田に跡目を継いでほしかったのではないかと推測されます。

関根、十三世名人を襲位

小野十二世名人が亡くなって6日後の2月4日、東京・丸の内「鉄道協会」で関係者が集まり、関根八段を次期名人に推挙することを決定しました。

関根八段の次期名人推薦決定を報じる「萬朝報」=1921年2月5日付
関根八段の次期名人推薦決定を報じる
「萬朝報」=1921年2月5日付

▼土居八段(のち名誉名人)の回顧録
小野十二世名人の逝去後、関根八段から弟子の土居八段に名人襲位に協力してほしい、と依頼があったことを土居は明らかにしています。(雑誌「近代将棋」1965年〈昭和40年〉12月号掲載「思い出の五十年」から)
土居は賛成し、名人襲位を円滑に進めるために二人の関係者にあいさつしておくことを進言しました。
《忘れもしないが、小野名人の埋葬の翌日だから大正10年2月3日朝、雪は万字巴えと降る最中、有楽町際の筆者の小宅へ関根先生が突然見えられた。
年を取っても遊びの方は人後に落ちない先生だから、また夜遊びの帰りであろうと、軽く思うていた。ところが先生は形を改め筆者に向い、近頃次期名人問題が棋界で大分評判だが、宜しく頼むとのこと。
承知しました。先生の就位は決定的であり、わが将棋同盟社はもちろん、他の棋士一同はだれも異存のないはず。
しかし問題は未だ棋界は貧弱であり、棋士以外二名の愛棋家が現在棋界の発展に尽している。この人達に礼儀を尽しておく方が賢明であると思う。
すなわち、万朝報記者の三木愛花先生は、棋界が極度の不振の際、将棋同盟社創立、将棋新報発行など、十数年以前から現在に至るも、なお特別の後援に預っている。
次に佐藤功二段である。このご仁は棋界の恩人というほどのご仁ではないが、自己の本業を利用して国民・時事、あるいは日々新聞などの将棋欄をたん任している。この両氏を訪問して一応挨拶しておくべきが礼儀でもあり、何かに就いて便利でもあります。
この両氏訪問に私がお供するのは容易ですが、それでは妙味が薄い、先生個人で訪問し誠意を示す方が、最善と進言したのであります。(略)
翌二月四日夕刻、丸ノ内鉄道協会へ在京の七段以上の棋士を招請し、名人候補者選定に関する相談を開始しました。
集合の人々は、関根、土居、竹内の各八段。金、矢島の両七段、三木、佐藤の両氏であります。それに阪田八段は上京中でありますが、折悪しく大崎七段と朝日新聞の棋戦を対局のため、同社の将棋たん任記者桑島俊氏が両棋士の代表として参会した。
協議の結果、この際他の後輩を名人に推挙しては却って争議が生じ、あるいは名人を数人出すごとき醜態を生ずる恐れがあり、この際関根八段を次期名人に選定が妥当である。
しかし小野翁死してなお、一七日(注...初七日のこと)過ぎざるに、はやくも後継者を推選するのは世上のこえも宜しくなく、故人に対しても礼を失するであろうとの意見に対し、一同その議当然と言い、この日は単に関根八段を名人に推選の準備にとどめ、いずれ故小野五平翁の百か日過ぎた五月頃に推選の公表を内約し、至極円満に協議会はおわった。》

▼大崎熊雄八段の回顧録
1920年(大正9年)ごろから関根名人誕生までの経緯を、1935年(昭和10年)に大崎熊雄八段(贈九段)が詳細に口述しています(「将棋世界」1940年〈昭和15年〉8月号掲載)。年齢などで誤りもありますが、当時の状況、経過を詳しく表しています。(原文のママ)
《その當時、小野名人は全く老衰されて居た。で、次の「名人」問題は喧しかつたが、その名人候補者は今迄の關根、井上兩先生ばかりでなく、坂田師とそれに當時ひのでの勢ひで新しく八段に昇格した土居師が加わつたのである。關根先生と井上先生との間には、お互ひに最早五十を越してゐるので短期間互ひに「名人」位を推し合はうといふ相談があつたようだが、そのうち井上先生は五十七歳(注...実際は56歳〈数え〉)で世を去られ、引續いて小野先生も九十三歳(注...実際は91歳〈数え〉)で亡くなられた、そしていよいよ「名人」位繼承問題は本舞臺となり、棋界に大波瀾をまき起す様になつたのである。小野名人の死によつて名人問題はいよいよ本舞臺には入つたが、當時實力から言へば第一に坂田三吉師に指を屈せねばならなかつた。土居師も新しく八段になり坂田師とは一勝一敗の成績であつたが經歷人氣の點では、やや坂田師に劣るものがあつた。
しかし名人問題が起るや「将棊同盟社」の機關雜誌は、實力あり且前途に春秋の多い土居師を名人にすべしと主張し、毎月のやうに有名な三木愛花翁が筆をとつて居られ、そして實際のところをいふと關根先生が一番影が薄いやうであつた。兎も角、關根・坂田・土居の三派は、小野名人の死と同時に各々行動を開始した。(略)當時土居師の後援は「将棊同盟社」の本據「萬朝報」一派で、その代表者は前に云つた三木愛花翁であつた。坂田三吉師には關西将棋界は勿論大阪朝日が絶對の支持を與へて居たし、東京でも柳澤伯が實力主義の立場から支持してゐられたやうである。關根先生の方には金(當時七段)が筆頭にひかへて居たが金師もまだ若い頃で社會的な力は極めて弱かつた。しかし其處へ力をかさうとしたのが、竹内翁(※)と私と、それに東京朝日の桑島俊(鈍聴子)氏である。其間種々の經緯はあつたが、坂田師には私が柳澤伯邸で説き、三木氏には竹内翁が會つて、結局關根先生の「名人」繼承が実現するやうになつたのである。關根先生の五十五歳(注...実際は54歳〈数え〉)の時であつたと思ふ。》
→※印の「竹内翁」とは、山形県酒田在住の素封家である竹内丑松(号・淇洲)八段のこと。

名人襲位時の関根金次郎
名人襲位時の関根金次郎

▼関根八段の名人受諾談話
1921年(大正10年)2月5日付の「報知新聞」に関根八段の名人受諾談話が掲載されています。(原文のママ)
《關根氏が名人に 小野五平の後繼者決す
棋界の名人小野五平翁歿後後繼者推挙に就き先般來關東關西の有段者間に於て諸説紛々たるものがあつたが關西派の巨頭阪田八段も既に小野翁葬儀に際し聲明した如く關東派の閲歴並に呼び聲高い八段關根金次郎氏を愈々推薦するに一致したので四日午後から丸の内鐵道協会で先づ小野家の代表者として矢島七段土居竹内兩八段金七段其他有段者十數名參集し關根八段に右の推薦状を呈する事となつた同氏は席上で語る「今夕阪田八段の參列はなかつたが代理の人が來て呉れた、勿論其處には既に諒解が成立しているから私は潔く推挙を受けた次第です、私は棋界の此推薦に行つて小野家の後繼者として立つて行く事は無上の光榮と思ふと同時に棋界の情実を一掃して嚴正の態度を持して行きたい覚悟です」と(後略)》

関根名人披露会を伝える「萬朝報」の記事=1921年4月9日付
関根名人披露会を伝える「萬朝報」の記事
=1921年4月9日付

関根の名人披露将棋会は同年5月8日、東京・日比谷大神宮前「大松閣」で、阪田八段対土居八段戦など15局の席上対局を催して盛大に執り行われました。

名人披露会の案内状
関根名人披露会の案内状=『棋道半世紀』(関根金次郎著)から
※①案内状の「賛助」のうち、三木貞一(筆名・愛花)は「萬朝報」記者、佐藤功(二段。筆名・棋狂老人)は「国民新聞」などの将棋欄担当、桑島俊(筆名・鈍聴子)は「東京朝日新聞」記者、山本松之助(筆名・笑月)は「東京朝日新聞」社会部長で、長谷川如是閑(はせがわ・にょぜかん。ジャーナリスト、文明批評家)の実兄。
※②文献により「阪田」「坂田」と名字の表記が混在しますが、日本将棋連盟では「阪田」で統一しています。