日本将棋の歴史

本欄では日本将棋の歴史について、とりわけ新聞に将棋が掲載されるようになってからの道のりを、明治、大正、昭和の時代ごとに詳しくたどっていきます。

新聞と将棋との関わりは、時代とともに徐々に変化してきましたが、日本将棋連盟の経済面を支える大きな柱は、現在でも新聞社からの契約金です。新聞に棋戦が開始されてからでも100年以上の歳月を経ています。新聞将棋について詳しく触れる前に、将棋の起源といわれる古代インドのチャトランガの誕生から日本への伝来、日本独自の発展を遂げた将棋について、要約して振り返っていきます。

伝来時期は不明

将棋の起源は、古代インドのチャトランガというゲームにあるという説が最有力です。いつ誕生したかは諸説があり、はっきりしていません。ヨーロッパやアジアの各地に広がり、さまざまな類似の遊戯に発展したと考えられています。西洋にはチェス、中国にはシャンチー、朝鮮半島にはチャンギ、タイにはマークルック、そして日本には将棋です。日本への伝来時期はさまざまな説がありますが、物証に乏しく、はっきりしたことは分かっていません。伝来ルートは①インド~中国~朝鮮~日本と、②インド~東南アジア~日本のどちらかといわれています。

平安時代(794年~1185年)の将棋

現状では、1993年(平成5年)に奈良県の興福寺境内から発掘された駒が最古といわれています。駒は16点あり、同時に【天喜6年】=1058年=と書かれた木簡(もっかん。細長い木片)が出土しました(正確には天喜6年7月26日)。この駒は、木簡の上に文字を書いたと見られ、すでに五角形をしていました。次の写真で確認できるように、出土した三枚とも「玉将」だけで、「王将」はありません。

興福寺で出土した将棋の駒
天喜6年(1058年)の木簡とともに奈良県の興福寺で出土した将棋の駒
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館所蔵

駒は玉・金・銀・桂・歩の5種類でしたが、習書(練習用に書かれた)木簡の「醉象(すいぞう)」も出土しました。この駒は、真後ろに動けないだけで玉と同じ動きをし、醉象が成ると「太子(たいし)」に変わり、玉将(王将)と同じ働きになります。 たとえ玉を取られても太子が存在する場合は、太子が取られるまで対局を続けることができました。

最古の将棋史料

最古の将棋史料といわれているのは、藤原明衡(ふじわらのあきひら)の著書と推定される『新猿楽記(しんさるがくき)』(1058年~1064年?)で、将棋に関する記述があります。猿楽は平安時代に起こった滑稽な大衆芸能です。本書は平安京(現在の京都)の猿楽見物に訪れた右衛門尉一家の家族構成や生活態度などを述べた諷刺文学といわれています。右衛門尉の娘の「気装人(けしょうびと・恋人のこと)」が多趣味で、そのうちの一つが将棋という設定でした。

原型の平安将棋

1210年~1221年に編纂したと推定される習俗事典(現在の百科事典に近いもの)の『二中歴』(三好為康撰の『掌中歴』と『懐中歴』の合本)に、大小2種類の将棋が取り上げられています。後世の将棋と混同しないよう、これらは現在では平安将棋(または平安小将棋)及び平安大将棋とも呼ばれています。使われていた駒は、平安将棋が玉将・金将・銀将・桂馬・香車・歩兵の6種類で、それらの駒以外に銅将・鉄将・横行・猛虎・飛龍・奔車・注人を加えた13種類が平安大将棋です。平安将棋の駒はチャトランガの駒(将・象・馬・車・兵)をよく残していて、上に仏教の五宝を示すといわれる玉・金・銀・桂・香の文字を重ねたものとする説もあります。

二中歴
『二中歴』13巻から(国立国会図書館所蔵)

画期的な駒の再使用ルール

時代が進むにつれて、マス目を増やしたり、駒の種類を増やしたりして、ルールを改めることが 行われました。13世紀ごろには平安大将棋に駒数を増やした大将棋が遊ばれるようになり、大将棋の飛車・角行・醉象を平安将棋に取り入れた小将棋も考案されます。14世紀ごろには複雑になりすぎた大将棋のルールを簡略化した中将棋が考案されました。15、16世紀には小将棋から醉象が除かれて現在の本将棋になったと考えられます。

将棋史上で特筆すべきこととして、日本ではこの時期に相手側から取った駒を自分側の駒として盤上に打って再使用できるルール、つまり持ち駒の使用が始まりました。持ち駒の起源については、小将棋、または本将棋で、駒の取り捨てでは勝負がつかなくなることが多かったために、相手の駒を取ったら自分の持ち駒として使うことができるようにした、と推定されます。日本独自の持ち駒使用ルールにより、将棋はさらに複雑で、奥が深くなりました。

御城将棋と家元

約400年前の1612年(慶長17年)、幕府は将棋の大橋宗桂(大橋姓は没後)・囲碁の加納算砂(本因坊算砂)らに俸禄を支給しました。宗桂は五十石五人扶持を賜りました。やがて彼らは、家元として将棋所・碁所を唱えるようになります。

江戸時代を通じて、名人は大橋本家・大橋分家・伊藤家の世襲制で、一度名人位に就いたら亡くなるまで名人の終生名人制になります。二世名人の大橋宗古は、江戸幕府への献上図式『象戯図式』(詰物百番)のなかで、禁じ手のルールを初めて成文化しました。

八代将軍徳川吉宗は、1716年(享保元年)に将軍の御前で指す「御城将棋」を年に一度、11月17日に行うことを制度化しました。現在、日本将棋連盟では昭和50年からこの日を「将棋の日」と定めて各地でイベントを行っています。歴代の将軍は将棋を愛好しましたが、なかでも十代将軍徳川家治(1760年~1786年在位)は熱中し、自ら七段を唱えます。また、図式集(詰将棋集)『御撰象棊攷格(ぎょせんしょうぎこうかく)』も著しました。
ところが、1868年(慶応4年)に江戸幕府が滅亡すると、将棋三家は経済的な基盤を失い、終焉を迎えます。ここから将棋界はかつてない苦難の時代に入っていくのです。