弦巻勝のWeb将棋写真館

取材旅行

更新: 2016年8月15日

月刊誌「近代将棋」は中野隆義さんが編集長で彼と良くタイトル戦の取材旅に行っていました。此の頃すでに将棋雑誌はピークを過ぎて、全盛期の7割ほどの発行部数。取材費が潤沢に有ると言う状況では有りませんでした。

居酒屋で中野編集と徳利をたくさん転がして彼の苦労話を聞く日が多かったです。
状況がそうで有っても、お互い将棋が好きで棋士が好きな事に変わりは無く、突き進んでいる流れでした。

原稿料の支払いも滞っている人も出てきて居ると彼から聞き、
「お前暗い顔すんな、明るい顔してろ!」
とはっぱをかけ、根拠も無いのに
「何とかなるよ・・・。」
と僕。

平成16年8月5日45期王位戦3局の封じ手から賢島に入り対局を撮っていました。
この頃からデジカメを使い始めたように思います。
データーが写真の中に隠されているから今になっても日にちや撮った時間が解ります。このカメラの便利な処でしょう。

一泊して大阪か、大阪に行ってから泊か不明。
この大阪は中休み、と言うか関西の棋士との交流の場。で次の日は桐山清澄九段、小林健二九段、小阪昇七段が梅田の雀荘で待っている手はずなんです。
2抜けだか3抜けで夕刻まで麻雀。東京組二人参加で後食事会がいつもの予定。

小林健二九段が
「はい今回はゾウさんチームの東京が勝ちましたね。」
とか和やかで明るいムードで結果発表。気の置けない仲間に中野編集長も笑顔の酒席。
この流れで年に数回やっていたのですから、左前になっても雑誌は急にトン死と言う事は無いんですね。
伊達康夫八段がお元気な頃からの会です。伊達先生、魔法瓶に焼酎のお湯割りを詰めて麻雀に参加の笑顔が今も目に浮かびます。
関西の棋士はとても家族的で東京とは少し違う空気なんです。今お付き合い頂いた先生方に感謝の気持ち大です。

翌日は通天閣の将棋道場で大田学さんの撮影。
1局教えて頂いてから取材しました。
大田さんの取材の謝礼が会社から出ないと中野編集長。昨日麻雀で勝った15,000円をポチ袋に詰めて
「少なくてすみません。」
と頭を下げて大田さんに渡していました。

今回の写真は全カット「ソニー・サイバーショットです。側に居る人に頼んでシャッターをきってもらっても僕が撮っても変わりません。とても良いデジカメでした。
"デジカメの餌は何だと孫に聞き"
この川柳の爺さんと同じくらいの知識でデジカメを操作していました。

掲載写真についてのミニ解説(サイト編集部記)

写真上から順に(1、2):
写真(1)は、平成16年8月4、5日に三重県「賢島宝生苑」で行われた第45期王位戦七番勝負(谷川浩司王位 対 羽生善治王座)第3局2日目の昼食休憩の時の局面(△2八飛)を撮影したもの。本局は、羽生が87手で勝ち、局後の感想戦で谷川がこの△2八飛を悪手だったと振り返った。
10年以上前のデジカメで撮影されたものであるが、露出をややアンダーにして、タイトル戦で佇む盤駒から両対局者の緊張が感じられそうな位に綺麗に撮られている。
写真(2)は、立会の五十嵐豊一九段が封じ手を開封したところ。なお、第45期王位戦七番勝負は、羽生が4勝1敗として3期ぶりの王位奪還を果たした。
写真(3):
本文中でも記載されていた、大阪での写真。左から小阪昇七段、小林健二九段、桐山清澄九段、近代将棋元編集長・中野隆義氏、そして一番右が弦巻氏。
写真(4~7):
「最後の真剣師」と呼ばれた太田学氏は平成19年2月21日に92歳でこの世を去った。大田が将棋を始めたのが、30歳の頃からだそうで、今の時代で言えば、極めて晩学だ。元々、大田の父親が倉吉信用金庫(後の鳥取信用金庫)の理事を務めており、愛棋家でもあったことから、プロの棋士やアマ強豪も家に多く出入りしていたようだ。そういう環境の中で、めきめきと実力をつけていった。昭和24年には、アマ名人戦の鳥取県代表として初出場している。その後、真剣師としての道を歩み続ける。真剣師とは、いわゆる賭け将棋を生業とする呼称であるが、当時は、プロ棋士も経済的に恵まれていなかったこともあり、真剣師の方が稼げたのかもしれない。
但し、時代が過ぎ、もはや真剣師としての賭け将棋に対する風当たりも厳しいものとなり、大阪通天閣の将棋道場で指導将棋を指すことで生計をたてていた。昭和52年に第1回朝日アマ名人戦に突如として出場。63歳で見事に優勝したことは、今から考えれば驚異的だ。
NHKの朝ドラの「ふたりっ子」のヒロイン香子に将棋を教える「銀じい」のモデルとなったことで、一躍有名となった。
写真は、平成16年夏に撮影されたもので、大田が晩年に近い頃のもの。その頃は、ジャンジャン横丁の三桂クラブと難波の天狗道場を行き来し、入院するまで将棋を指し続けていた。