弦巻勝のWeb将棋写真館

駒師

更新: 2014年12月12日

「今の駒師は駒を観た事無いから創れんのじゃ。」
升田幸三先生宅に写真を撮りに行った時に、
「先生の持っている駒で一番良いのを見せて下さい。」
と僕が言ったら奥から大事そうに駒を手にした先生が開口一番に語った言葉です。
「これ、撮らせて頂いても良いですか・・・。」
「みな人にあげてしまい、今はこれしか残っとらん。」
「これ、歩が足りんのじゃ。」
「足りないのですか・・・?」
先生は返事をしないので僕は一応盤に並べてみました。
ぴったり並んだんです。全部の駒が綺麗に並んだのを見て先生は
「歩が足らん・・・。」
将棋の駒は並べた後、歩が一枚余らないといけないらしい。僕は初めて知りました。
「将棋の心もちです。」
先生はそう言って笑顔でした。
その駒は宮松の大振りの盛上駒でした。先生は駒師の宮松さんと良く呑んだらしいです。そして宮松さんは酒で亡くなったと後で知りました。
升田先生が注文すると
「予約している何人もを飛び越して創った。」
と嬉しそうに語っていました。

香月さんを撮りに行ったのは昭和50年のはじめの頃でした。撮影の後、お酒をご一緒しました。撮って居る時は気が付きませんでしたが手の指が少し少なかったです。修業時代落としたそうです。

香月さんは、「僕は天童の駒師では有りません。山形です。天童の駒師と一緒にしないでください。」酒の席での話の内容はこんな感じでした。かなり強い口調だったので覚えています。その頃山形県と天童の関係が今一つ僕には解らなかったです。
天童は番太郎駒とか普及品の駒が名産で、それらと違うと言うプライドを持たれている駒師と後で知りました。
将棋連盟の将棋博物館に大将棋の駒を寄贈し、連盟近くの鳩森神社の六角堂にも大山康晴先生の依頼で香月さんが創り、大きな駒を寄贈しています。この飾り駒は将棋連盟の指し初め式の時に観る事が出来ます。
新潟の竹風さんと天童の佐藤敬さんは今息子さんが継いでいます。
竹風さんや佐藤さんの駒観たら盛上駒が欲しくなりますよ。御蔵島(みくらじま)の黄楊(つげ)の木が駒に一番良いとされていますが自然が破壊され、木地もこれからは少なくなりますよね。盤は榧(かや)の木ですがこちらもだんだん無くなるのは一緒でしょうね。御蔵や日向の本物の盤駒で指すのは心もちが良いですね。でも、最近はネットで指しますから、本物の盤駒はかなか目にしないです。奥野や龍山の駒は将棋連盟以外で最近観た事無いです。

盛上駒は毎年値上がりして高値で買えないです。僕は木村の彫駒を昔手に入れ、それを持っています。なぜか歩が一枚足りないです。でも小ぶりで上品な駒です。駒は好みですから、好き嫌いで選べば良いと思います。駒師に彫駒が一番芸が解りやすく出るので、ごまかしが効かず苦労すると聞いた事が有ります。

掲載写真についてのミニ解説(サイト編集部記)

写真上から順に(1~4):
(1)の写真は、香月師作・彫駒、草書。流麗な筆運びが特徴的な書体。香月師は、多くの職人を抱え、新しい書体の取り組みも意欲的に行っていた。駒銘には、「香月」、「駒師香月」、「名匠香月」など数種ある。特に、「名匠」は、時の日本将棋連盟会長であった大山康晴十五世名人が認め授けた経緯もあった。
写真(5~7):
新潟県三条市出身、初代竹風師が制作している様子。初代・大竹竹風(大竹治五郎)師は、東京で生まれ、活動をしていたが、戦災によって父親の実家である新潟に戻った。その後、二代目・大竹竹風(大竹日出男)師が後を継ぎ現在も活躍している。駒木地の種類も数多く携えており、柾目から斑、杢模様まで鮮やかな木地の作品が多い。(7)の写真は、初代大竹竹風師作・盛上駒 菱湖書 虎斑。竹風師の菱湖書は特徴的で、しかも旧版と新版が存在する。「歩」の左払いを見ると分かる。払いにハネがないのが旧版でハネがあるのが新版。従って写真は旧版の菱湖書である。
写真(8、9):
佐藤敬氏は、初代・光匠(こうしょう)の銘で駒を制作。NHK杯で使用されている一字書体(初代書)の駒でもお馴染みだ。現在の「天童佐藤敬商店」の代表・佐藤稔氏が後を継ぎ、二代目・光匠として制作から販売まで行っている。清風(せいふう)、光花(こうか)の銘でも盛上駒から彫駒まで幅広く取り扱い、比較的リーズナブルな価格で手に入れることができる。なお、駒師の銘というと人物を想像しがちだが、正確には号に近いものと考えた方がよい。