弦巻勝のWeb将棋写真館

大型カメラと35ミリカメラ

更新: 2015年10月4日

「シノゴが使えないとプロとは言えない」これ僕の時代の常識。
で、写真をやる奴は皆ビューカメラを学びました。
ジナー、リンホフ、それにアメリカではディアドルフなんて言うカメラが有名。どれも高値で買えないです。

国産のトヨビューの4×5を買って学びました。レンズだけは奮発してシュナイダーを90ミリ、150ミリ、210ミリ、これらのレンズはイメージサークルが広いんです。
三脚はジッツオー。「シノゴ」とは4×5インチの大型カメラの事です。

外光のほとんど入らない倒産した工場を借り、其処をスタジオと称して撮影の練習。
白い紙を敷き、其処に生卵2個。150ワットのリフレクターランプを一灯。
まあ、いろいろなライティングをやるわけです。レンブラントライティングとかね。それにアオリと言う技術とか、卵に近寄りすぎると蛇腹が伸びるから露出倍数の計算が必要だったりと、真面目に学んでも1年や2年では足りないくらいなんです。闇夜のカラス撮るのも大変ですが、白の紙の上の白い卵も難しいです。

ホルダーにシートフイルム詰めるのだって熟練しないと出来ない。現像も皿現像で、なかなか大変なんですね。2~3か月で皆辞めちゃう。
「俺、35ミリだけにするわ~、シノゴは面倒。」
我が仲間此処でつまずいて辞めてしまいました。
「コマーシャルエクターはすげ~玉だよな。」
なんて寝ずに語った仲間なのに・・・。

技術的な事もそれなりに進歩しますが、長く毎日同じことやっていると、ある日寝不足も手伝って、光が見えるようになるんですね。
画家のレンブラントに夢で会い、彼が僕に夜警のバイトしないかと誘ってくれると言う変な夢を観た次の日、シノゴをマスターした気がしました。このシノゴの勉強はとても良かったと思います。大型カメラは写真の基本を学ぶのに必要な時間でした。

その後コマーシャルとエデトリアルに分かれスタジオで商品撮るのと雑誌でグラビア撮る人に分かれます。
海に遊びに行く人と山に遊びに行く人みたいにね。念願のジナーを買う奴とライカを買う奴に。結果コマーシャルに行った奴は収入が百倍。そんな日本でした。
でも奴等バブルでハジケけちゃったです。屋台が小さかったから僕はハジケなかったです。

ライカのM4にズミクロンの35ミリf2のレンズが僕の将棋の写真の最初の頃とても好きなレンズで、ほとんど此れ一本。他はニコン85ミリf1.8。その後M5からM6にレンズもチタンのズミルックスf1.4に・・・これはとても癖の強いレンズですが、仕上がりの想像が付くので安心感が有りました。
デジタル時代の今、僕が一番使う5センチのレンズはこの頃ほとんど使わなかったです。
標準で何の変哲も無い5センチのレンズが有れば、どんな時でも撮れると思う風になった今は、何だか不思議です。画像がギリギリシンプルで自分の目の距離感から50ミリと85ミリは人物写真の王道と思います。僕、ズームは使いませんので現在この2本で仕事の写真は撮っています。
でも前日まだ迷います。たまにはサンニッパ(300ミリのf2.8の事)で撮るか、でも重くてね。
写真の神髄は105ミリと昔先輩に習いましたが、その先輩の歳を越したのにレンズが105ミリに到達しないで85ミリでウロウロしています。「辿り来て未だ山麓」と言った処なんです。これ升田幸三先生の色紙に有りますよね。普通が一番と思います。

掲載写真についてのミニ解説(サイト編集部記)

写真上から順に(1):
升田幸三実力制第四代名人。升田の故郷、広島に行く日に夫人との待ち合わせの際、2時間程度時間があったそうで、東京駅の食堂に入った時の様子。ライカで撮影している。昭和51年頃。
写真(2):
平成6年に撮影。画家・梅原龍三郎が升田幸三実力制第四代名人に宛てた書簡。日付を見ると1959年6月12日とある。
写真(3):
平成6年8月8日に催された第52期名人就位式での羽生善治名人。
写真(4):
昭和51年、中原誠十段の就位式での塚田正夫名誉十段。塚田名誉十段の写真の多くは、朴訥とした、まるで小津安二郎の映画に出てくるような印象が強いが、この瞬間の塚田は人間味あふれるリアリティが感じられる。そういった意味でもインパクトのある一枚だ。
写真(5):
昭和56年9月7、8日に東京「ホテル・ニューオータニ」で行われた第22期王位戦七番勝負(中原誠王位 対 大山康晴王将)第5局の終局後の一枚。将棋は、大山が94手で勝利している。晴れやかな表情がそれを物語っている。
写真(6):
三笠宮寬仁殿下は、将棋がお好きであった。将棋会館に来館され、二枚落ちの指導対局を受けている時の模様。脇息を抱え込んで考えている姿はまさに真剣さと熱心さが伝わってくる。
写真(7):
女流名人位戦での林葉直子元女流棋士。
写真(8):
対局中の花村元司九段。「東海の鬼」と言われ、アマ時代から真剣師としてその名を馳せた。プロ試験を経て付け出し五段でプロ棋士となった異色の経歴を持つ花村は、その風貌からも将棋は「妖刀使い」と呼ばれた。