弦巻勝のWeb将棋写真館

谷川浩司九段(其の一)

更新: 2015年7月4日

どんな子が将棋、強くなりますか?・・・この問いを米長邦雄先生にした事が有ります。
1)考えるより手が先に出るくらい指しての早い子。
2)桂馬の使い方が上手い子。
3)負けて悔しがる子

2)を詳しく書くと二枚落ちで右桂は相手が強いとなかなか飛べない。
3七に飛べる子、4五まで飛べる子、5三まで行ける子。
だいたいそんなような内容だったと思います。

谷川さんが5歳上の兄・俊昭さんと子供の頃指していた駒を撮った事が有ります。全部の駒に悔しさの歯型がついていました。

プロ棋士としてデビューした頃すでに東京の棋士達は次の名人になる人と酒席で名前が上がっていました。
撮影を依頼され、僕が神戸まで撮りに行った頃には谷川さんはすでに六段になっていました。父君は住職、兄は東大生、将棋は名人になる才能。新幹線の中で僕はイートン、ハロー校の生徒を撮りに行く気分だつたです。

山が育ちの我が人生とは対極の人と理解し、臆する気持ちが強かったと当時を思い出します。滝川高校の前で制服姿を撮り、自宅で色紙を書くところなど撮りました。
谷川さんと会話した記憶が有りませんが、お話好きの父君にたくさん話を伺ったと思います。

一休さんみたいに文机で書をしたためる高校生の谷川さん。それからすぐに八段に、この時も大阪に撮りに行きました。そしてすぐにタイトル戦に出て来るわけです。
崇高な感じがして、どう撮ったら表現できるのか、その頃の僕には解らなかったです。 ただただカメラを向けて撮っていたように思います。次回はその後の流れを書きます。

掲載写真についてのミニ解説(サイト編集部記)

写真上から順に(1):
昭和60年10月3日、第33期王座戦五番勝負第3局が神奈川県秦野市の「陣屋」で行われた時の写真。中原誠王座に谷川浩司前名人が挑戦した。緒戦を谷川が勝利したものの3連敗し、タイトル奪取とはならなかった。
写真(2):
本文中にあった歯型のついた駒。駒も然ることながら盤もかなり使い古した感がある。
写真(3):
神戸市須磨区の自宅で色紙に揮毫しているところ。谷川が六段の頃なので昭和55年頃、当時18歳の時の写真。色紙の揮毫を見ると、現在の特徴的な書とは趣が少し異なっているのが分かる。
写真(4):
昭和53年4月23日第1回オールスター勝抜き戦での大内延介八段 対 谷川浩司四段戦感想戦の模様。この将棋は、大内八段が新鋭谷川四段を下し、貫録を見せた格好となった。米長邦雄八段の左側には、『5五の龍』でも知られる漫画家のつのだじろうさんが感想戦を見ている。
写真(5):
昭和57年3月26日関西将棋会館で行われた第40期名人戦昇降級リーグ1組(現在のB級1組)の真部一男七段 対 谷川浩司七段戦、終局後の模様。谷川七段は、この対局に勝って挑戦者決定リーグ(現在のA級)入りを決めた。
写真(6):
阪神タイガース応援団が集う店での一枚。写真一番右から谷川浩司(九段)、井上慶太(九段)、南芳一(九段)、浦野真彦(八段)、手前に写っているのが神吉宏充七段。
写真(7):
自宅での研究会の一枚。谷川浩司(九段)の左には、南芳一(九段)の姿も見える。
写真(8):
第41期名人戦挑戦者決定リーグは、最終局を終え、中原誠十段と谷川浩司八段が7勝2敗で並び、プレーオフとなった。プレーオフは、昭和58年3月24日に東京・渋谷区「将棋会館」で行われ、谷川八段が153手で勝ち、加藤一二三名人の挑戦者となった。そして、その後最年少名人に就くまでは、周知のとおりだ。
今も昔も将棋会館特別対局室では、昭和から平成の現在に至るまで将棋史に刻まれる戦いが繰り広げられている。