弦巻勝のWeb将棋写真館

米長邦雄

更新: 2015年9月19日

「先生は背筋がスーッとされているから遠くからでもすぐ解りますね。」
家内が早朝自転車で出かけた時、散歩中の米長先生に会い声を掛けたらしい。
それを受けて米長先生は「背筋は真っ直ぐなのですが、性根は曲がっているんですね。」
と笑顔だったと言う。

家内が会った前日の夜、僕は米長先生と鷺ノ宮の鮨屋でしこたま呑み、そうとう絡んだ記憶。
「弦巻さんは向う、僕の道はまったく反対のこっちね・・・ではさらば・・・。」
そう言われ鮨屋を出て分かれたのはかすかに覚えています。
「彼は5合以上呑むとどうしょうも無いんだが、呑まないと神様みたいな男ですから宜しくね、大事にして下さいね。」
と家内に伝えた風。
二日酔いで僕は寝床で「あぁ~あ、またやったか・・・・。」
先生との酒の後半はいつも「おい、米長!」と言う風に僕はなるんですね。
『週刊ポスト』誌の将棋ページ連載で地方の日本将棋連盟の支部を7年間一緒に回ったです。約3ヶ月で2回のペースで将棋支部回り。たいていは1泊2日か2泊3日。外国の時は1週間くらいでした。日本全県廻ったんですね。
先生は人気が有り、モテるからいろいろな事が起きるんですね。

ホテルに泊まっての早朝、
「散歩、散歩、行きますよぉ~。」
と起こされ、吐きそうな状態で部屋から引っ張り出され同行。
お蔭で「瓢亭」の朝飯は最高よと高級料亭の朝食にありついた事も有ったです。
反対に琵琶湖の近くの宿の時は僕が嫌いだと言うのにフナ寿司を山盛り頼み、喰え喰えとニコニコ顔の先生。痛え~目に合わしてやろか・・と思った事も有りましたよ。
「痛え~目に合わせる。」の言は、先生の酔った時の口癖。
鳥取の砂丘で裸になって
「これから走るから撮ってくれ・・・。」
脱いだパンツだけ手に握って砂丘を走るんですね。何とも不思議な先生です。
これ当時発行部数がとても多い新潮社の『FOCUS』(フォーカス)誌に掲載したら大騒ぎ。東京都の教育委員になる頃に、この写真でそうとう攻められた風。僕にも責任が有るね。裸で十段戦に挑戦する、の意気込みの表現なんですね。
右に行けば天国、左に行けば地獄、その分かれ道に米長先生が笑顔で一升瓶持って立って居る風に最近思うんですね。
「先生、こっちが先に背筋が曲がって来ましたよ。」

掲載写真についてのミニ解説(サイト編集部記)

写真上から順に(1):
年の瀬も押し迫った昭和58年12月27日。第43期棋聖戦五番勝負第2局が静岡県沼津市「八宏園」で行われた。前期棋聖戦で中原誠棋聖からタイトルを奪取した森安秀光棋聖に米長邦雄王将が挑戦した。写真は、昼休頃に撮影されたものと思われるが、両対局者の表情がタイトル戦を戦っている雰囲気とは見えないほど柔和なのが印象的だ。そもそもカメラ目線で両対局者が対局中にレンズに顔をむけることは、まずないのだが、弦巻カメラマンと両対局者との関係がこの一枚から見て取れる。なお、記録係は、富岡英作三段(八段)が務めていた。
写真(2、3):
『週刊ポスト』誌で全国を巡回し将棋の指導をした企画は7年もの間続いた。写真(2)は、山形県天童市「東松館」にて。写真(3)は、石川県の海水浴場で撮影されたもの。
写真(4):
同じく『週刊ポスト』誌の企画でコメディアンの萩本欽一氏と指導対局した時の様子。
写真(5):
昭和59年12月4日、東京虎ノ門の「イイノホール」で第1回駒音コンサートが開催された。山本直純氏、岩淵龍太郎氏、岡村喬生氏などの将棋好きの音楽家が集まった日本楽壇将棋連盟と日本将棋連盟の合同企画によるイベントだった。棋士もトップクラスの棋士が参加し、当然ながら米長もその中に入っていた。その時に米長(王将)が歌ったのが「上海帰りのリル」。ちなみに谷川浩司(名人)は、郷ひろみの「哀愁のカサブランカ」を熱唱した。
写真(6):
昭和60年11月14、15日に山形県天童市「滝の湯ホテル」で行われた第24期十段戦七番勝負(米長邦雄十段 対 中原誠名人)第3局での一枚。感想戦も終えた後だろうか、表情は明るい。十段防衛に執念を燃やす米長十段は、この十段戦が始まる数ヶ月前から宗看・看寿の『詰むや詰まざるや』を手放さず、難問詰将棋を解き続けたという。
写真(7、8):
昭和60年12月5、6日、第24期十段戦七番勝負(米長邦雄十段 対 中原誠名人)第5局が愛知県新城市「雲竜荘」で行われた。両者2勝2敗のタイで迎えた第5局は、米長が快勝。終局時刻も午後2時29分と早いものだった。写真は、感想戦終了後に対局室の窓から屋根に出て撮った一枚。なお、この時、弦巻カメラマンは「撮影して屋根から落ちそうになった。」と言っている。また、写真(8)は、さらにその後、宿のドテラに着替えた米長は、かなり険しい石段を登って近くの神社に参拝。その時に撮影されたもの。この後、打ち上げが行われるが、1時間そこそこで米長は帰京した。この時、米長の対局スケジュールはかなり過密で、11月26、27日の十段戦第4局から12月5、6日の十段戦第5局まで5日連続での対局を含む計6局を対局していた。この後、12月10日に第47期棋聖戦第1局を中村修六段と箱根で戦っている。
写真(9、10):
写真(9)は、大阪の街角にて自身の巨大似顔絵と詰将棋をバックに撮影。昭和61年頃と思われる。写真(10)は、昭和61年頃に撮影。米長が認めた直筆色紙。
写真(11):
昭和60年8月号から昭和62年4月号まで『将棋世界』に連載された「泥沼流米長の さわやか美女対談」の最終回が女優の真野あずささんだった。対談は、東京・紀尾井町「福田屋」で行われ、その時の一枚。『将棋世界』では見開きでカラーの写真が掲載された。
写真(12、13、14):
写真(12)は、ゴルフ場での一枚(昭和60年前後頃)。運動不足の解消の為、この頃は、週1回程度のペースでラウンドしていたようだ。写真(13)は、新潟県に行く車中での一枚。平成元年頃。写真(14)は、囲碁の研究をしている様子。
写真(15):
谷川浩司名人に米長邦雄九段が挑戦した第47期名人戦七番勝負第3局は、平成元年5月9、10日に福岡県「大丸別荘」で行われた。その時に撮影されたカットだが、米長の表情が険しい。結果は、米長の4連敗で名人獲得の夢が砕かれたシリーズとなった。そこから4年後の第51期名人戦で今度は逆に4連勝で中原誠名人から名人の座を奪取することになった。
写真(16):
昭和56、7年頃に撮影された写真。タイトル戦の時と思われる。