弦巻勝のWeb将棋写真館

月に兎が居た時代

更新: 2015年5月20日

1970年代~1980年代にかけて田丸昇九段と組んで月刊『近代将棋』の巻頭グラビアをやっていました。田丸さんが原稿を書き僕が写真。
このグラビアは棋士の先生方の自宅におじゃまして話を伺い撮る事が多かったです。
やはりその時の話題に上がる棋士の撮影が多く、引退の先生を撮るチャンスは少なかったです。

業界にだいぶ慣れた頃、依頼されての取材では無いのですが、引退の先生を個人的に会いたくて、カメラは勿論テープレコーダーを持って一人で行きました。

棋士番号10番の坂口允彦先生は挨拶の後おもむろに
「君、将棋は指すの・・・?」
「はい好きです。」
「僕は何も出来ないから将棋を指しましょう。」
「二枚落ちでお願いします。」
先生は僕の声が聞こえないのか平手で指し始める。将棋はその後どうしたのか、途中で指しかけの記憶です。
それから君に土産が無いからと色紙を持って来られ筆で書き始められた。長らく使用していなかった筆のせいか竹の部分と穂さきがポキンと離れた。筆は1本だけ。
「先生、お気持ちだけで・・・。」
先生はちびた鉛筆を持つように穂さきだけを持って墨で書かれた。頂いた色紙に落款は無いが僕の大事な色紙の一枚です。

棋士番号3番の金子金五郎先生は日本山妙法寺に帰依し、高崎の僧庵を一人で守られ、暮らしていました。
とても質素な生活で、電化製品が一つも無く、なんだか尾崎放哉の晩年のようだなぁ~と感じました。
撮影の後、喫茶店で話を伺おうと・・・
「先生珈琲でも・・・。」
「いや、私はその団子を頂きます。」
入った店で何本もみたらし団子を召し上がりました。団子を食べながら、とても真剣に話されます。しかし話す内容は遊郭に泊まって其処から遊女に赤い浴衣を借りて対局に行った事が有ると、本当に坊さんかと思いましたが将棋の話になるととても哲学的でした。
今、先生が話された遊女の話と団子を食べる絵しか記憶に残っていないです。

棋士番号14番加藤治郎先生
立会人をよくやられていた先生、打ち上げ後の麻雀のメンバーにと、声を掛けられる事が多かったです。朝方までやりました。
観戦記も書かれていたので連盟で良くお会いました。終わった後の酒席もかなりの回数誘われました。出稽古もされていたから加藤先生とお弟子さんの真部一男九段ともども写真を撮りに稽古先に付いて行った事も多いです。
稽古先のお客さんとの宴席はいつもとても豪華でした。オリンピックの話になり僕は東京オリンピックの話と思い聴いて居ると
「君~ヘルシンキの話だよ~。」
やはり時代が違うと思いました。お会いするとかならず
「息子さんは元気ですか・・・?」
と話しかけてこられたです。

棋士番号29番板谷四郎先生
板谷進九段を名古屋に撮りに行った時、進先生がお客さんの指導対局が遅れ、東京から出てきた僕が長く待つのはさみしいだろうと、おお先生「板谷四郎」がお付き合いをするとの事。
恐縮している僕をおお先生は鰻屋さんに案内してくれました。お酒を頂きながら名古屋の鰻を始めて食べました。その酒席で名古屋出身の将棋連盟職員の名を上げ
「君・・・宜しく頼むよ・・・。」
僕のようなフリーのカメラマンにです。
板谷一門の結束はすげぇ~なぁ~と思いました。呑みすぎて東京に帰れなくなり板谷進家に泊めてもらい、翌日小菅剣之助のお墓に案内して頂き、その時代の棋士の話をたくさん伺いました。

棋士番号31番高柳敏夫先生
浅草の演芸場で五代目柳家小さん師匠との2ショットを撮りました。ポン友のようなお二人の会話が妙に印象に残っています。
その後大黒屋と言う天ぷら屋に連れて行かれ、やけに黒い天ぷらだなぁ~とご馳走になった記憶。
二・二六事件を肌で知っている先生なんです。下町の粋を教わりました。
先生は冗談みたいな話が多くて本当かどうか顔色を良く見るのですが、いつも解らなかったです。
「君~台風は九州の室戸岬で右へ行くか左へ行くか考えるんだよ・・・。」
「台風は曲がる前に屋根に登って長い棒で捕まえれば良いんだ。」
「だけどね~君、あいつは目を捕まえないとダメなんだ。」

棋士番号32番廣津久雄先生
「静岡の駅に着いたら、将棋の廣津、とタクシーの運転手に言ってください。我が家に着きますから・・・。」
先生は電話でそう言う。将棋の駒の歩を逆さまにして残りの全部の駒をその上に積み上げる。この芸にビックリしたです。
何年、何月号だか忘れましたが、この時撮った写真は『近代将棋』のグラビアに掲載されています。
静岡には何度も撮影でお邪魔しました。般若心経を毎日一枚書かれていました。書いていて、なぜか最後の方に間違え台無しになる事が多いと語っておられました。
刑務所で講演や保護司などボランティアもされていました。
少し大き目の色紙に書かれた先生の般若心経、送って頂きました。今も大事にしています。

棋士番号46番五十嵐豊一先生
大きな声でしっかりハッキリ、言葉は綺麗。笑顔良し、五十嵐先生、立会の時は打ち上げがお開きになった後も中野英伴(カメラマン)さんと3人で先生の側に車座になり良く呑み語りました。
ここ数年多くの棋士が亡くなりました。五十嵐夫人、葬儀にかならずお顔を拝見します。将棋道を強く感じる先生でした。

昔の先生方はお月様には兎が居るのではと、将棋の夢を語ってくれた風に思います。今はコンピューターで何でも調べて「隕石の衝突によるプロセラルム盆地」なぁ~んてウサギの事を言う。

掲載写真についてのミニ解説(サイト編集部記)

写真上から順に(1):
坂口允彦(さかぐち のぶひこ)九段。明治41年12月10日、北海道の生まれ。平成2年1月18日死去。花田長太郎九段門下。弟子には、佐伯昌優九段(棋士番号79)。
写真(2):
金子金五郎(かねこ きんごろう)九段。明治35年1月6日、東京都の生まれ。平成2年1月6日死去。土居市太郎名誉名人門下。弟子には、小堀清一九段(棋士番号17)、松田茂役九段(棋士番号25)、山川次彦八段(棋士番号40)、山田道美九段(棋士番号なし)。
写真(3):
加藤治郎(かとう じろう)名誉九段。明治43年6月1日、東京都の生まれ。平成8年11月3日死去。山本樟郎(やまもと くすお)八段門下。弟子には、原田泰夫九段(棋士番号35)、木川貴一六段(棋士番号49)、木村義徳九段(棋士番号82)、真部一男九段(棋士番号111)。
写真(4):
板谷四郎(いたや しろう)九段。大正2年6月10日、三重県の生まれ。平成7年9月29日死去。木村義雄十四世名人門下。弟子には、大村和久八段(棋士番号71)、北村文男七段(棋士番号76)、板谷進九段(棋士番号84)、石田和雄九段(棋士番号97)、中田章道七段(棋士番号129)。
写真(5):
高柳敏夫(たかやなぎ としお)名誉九段。大正9年2月20日、東京都の生まれ。平成18年9月5日死去。金易二郎(こん やすじろう)名誉九段(棋士番号1)門下。
弟子には、芹沢博文九段(棋士番号68)、安恵照剛八段(棋士番号107)、中原誠十六世名人(棋士番号92)、宮田利男八段(棋士番号110)、大島映二七段(棋士番号130)、田中寅彦九段(棋士番号127)、伊藤果七段(棋士番号118)、島朗九段(棋士番号146)、達正光七段(棋士番号165)、村中秀史六段(棋士番号253)。
写真(6):
廣津久雄(ひろつ ひさお)九段。大正12年2月26日、福岡県生まれ。平成20年4月16日死去。花田長太郎九段門下。弟子には、菊地常夫七段(棋士番号119)、青野照市九段(棋士番号114)、鈴木輝彦八段(棋士番号136)、神谷広志八段(棋士番号149)、中尾敏之五段(棋士番号230)。
写真(7):
五十嵐豊一(いがらし とよいち)九段。大正13年9月27日、北海道の生まれ。関根金次郎十三世名人門下。弟子には、屋敷伸之九段(棋士番号189)。

※棋士番号は、1977年4月1日付査定に基づく四段昇進の順番。1955年~1977年3月までに死去した20人の棋士には棋士番号はない。また、棋士番号は死去後は欠番となる。平成生まれ最初の棋士・豊島将之七段は、棋士番号264。また、羽生善治名人は、175。糸谷哲郎竜王が260。渡辺明棋王が235。平成27年4月に棋士となった青嶋未来四段が丁度棋士番号300である。
また、女流棋士にも女流棋士番号があり、2011年4月1日付でこれまでの番号に変え、新番号が付与された。