弦巻勝のWeb将棋写真館

名人戦その2

更新: 2015年4月4日

「おぉ弦巻か、あの写真どうなった・・・。」
携帯のディスプレイに団鬼六と出た。
「ああ、先生、・・・今日できます。」
何も手を付けていなかったがとっさにそう答えた。
「浜田山の鮨屋予約するから、今夜来い。」「それから中野も呼べ。」

団先生は以前、横浜は桜木町の駅から見える高台に武家屋敷のような構えの大きな邸宅に住んでいた。屋上はビアーガーデンみたいになっていて先生の趣味かどうか解らぬが盆踊りの会場みたいに提灯がたくさん灯っているので、夜駅のホームから300ミリのレンズなら其処が確認出来た。
仲の良い棋士と僕はたびたび足を運び、先生が指導対局を受ける。
写真を撮った。僕にすれば後の宴会の方がいつも楽しみだった。

先生行きつけの野毛の高級割烹が最初に行く処で、いくら呑んでも頭が痛くならない良い酒が出た。流れは、その後高級クラブ。それから決まって「パパジョン」と言うスナック。
此処は今、息子さんがやっている。前は団先生と同い歳くらいの親爺が一人、レコードでジャズをかけていた。 此処で碁打ちの先生方と同席する事も多かった。
どんちゃん騒ぎで帰れなくなり鬼六屋敷に泊まった事も何度か有った。奥様の安紀子さんが敷いて下さった羽根布団と枕元には水差し。高級旅館より寝心地も、住み心地も良いかった。

「中野、今夜浜田山行くぞ・・・。」
中野隆義氏は当時、月刊誌「近代将棋」の編集長をしていた。団先生の電話を受け、連絡をとると忙しいと言う。

数年後、団先生は株で大損し、浜田山のこじんまりした家に引っ越し何度か入院もしたが、いたって元気に愛犬のアリスと同室で暮らしていた。

中野はアドリブは効かないが真面目で人柄が良く、団先生が緊急の時など介護の役に安心できると、奥様の安紀子さんはつねずね語っていた。僕が花札のカス札だとすれば中野は青タンくらい、人間力に差が有る。
団先生とそれまでに3人で何度も旅をしているが、信頼度が中野と僕では全然違う。財布を中野には預けるが、僕にはたぶん預けない。支払の時、レジで中野なら領収書をしっかり貰うが、僕なら、おぉ、いっぱい入っているなぁ~って、万札出して「お釣りは要らないよ!」って事になる。

僕は浜田山で中野と合流し団先生が予約した鮨屋で勝手にビールを注文して先生を待ちながら中野に説教をした。
「お前、入稿だとぉ~、忙しいのは解るが名人戦に行くんだよ・・・!」
「お前酒呑む以外他に出来る事有るの~?」
「人の役に立つ事できないだろ~。」
「ジュリーの『勝手にしやがれ』歌うのと酒呑むだけじゃん・・・。」
「そぉだろ!」
中野にダメージはまったく無い。鮨屋の天井を見上げて、何か考えて居る。

「おぉ弦巻、写真持ってきたか?」
主賓が来るまでビールに手を付けず待っていた中野が団先生にビールを注ぎながら写真を手渡す。先生はプロ棋士に指導を受け写っている自分の笑顔の写真を手にとり、ご機嫌で居る。
「二人とも呑んでいたか?さぁ、もっと呑め!」
「いい写真だな、これもいいなぁ~。」
とビールを注いでくれる。
今まで静かに低い声で「えぇ、まぁ」とか薄暗い顔していた中野がビールひと口で急に笑顔になった。

団先生と僕たちは名人戦と同じ宿をとり、名所観光し、早めに浴衣に着替え大浴場で、
「お前、どっちが勝つと思う?」
才能はどっちが凄いなど、確信的な話になると、たいてい意見は合わない。二人大声で口から泡を飛ばし、エコーの効いた湯船で仁王立ち。腰に両手を当て睨み合う。中野はタオルで背中を洗いながらも脳梗塞で倒れた事の有る団先生を注意深く見守っている。時々彼の目線が僕にも飛んで来る。

部屋に運んでもらった夕食で、しこたま呑み、浴衣の帯をぶら下げ掃除の行き届いた廊下で宿のスナックに行く。
団先生が三橋美智也を歌う頃には聞き覚えの有る歌声に誘われてか、名人戦関係者や棋士も、広いカラオケスナックに集合していた。

団先生は戦うどちらの棋士に会っても、上目使いで「貴方の方を応援していますよ。」
と笑顔で語っていた。さすがに僕よりアドリブが効く作家だと思った。
遠くで中野が陶酔した顔で得意の『勝手にしやがれ』を歌っている。中野の方を向いている関係者は一人も居ないが、歌が終わり、音が静かになった瞬間に皆反射的に中野の方を見て拍手をしていた。

「鬼六の夢観たって?!」
と団先生の奥様から電話。
「あたし、一回も観たこと無い。」
僕が北海道にヘルニアで入院した頃、病院に団先生から本が送られて来た。
『鬼六の不養生訓』朝日ソノラマ・1996年。そこには「御病気ご苦労さま 団鬼六」と記されていた。そして「棋界の荒馬がポニーにならないでね」と奥様の手紙がそえられていた。
桜の咲く名人戦はいつも思い出も運んで来る。

掲載写真についてのミニ解説(サイト編集部記)

写真上から順に(1):
第55期名人戦七番勝負(羽生善治名人 対 谷川浩司竜王))第1局が平成9年4月10、11日に大阪府堺市「堺市茶室・伸庵」で開幕。その1日目の昼に撮影されたもので、両者の表情が固いのもその為である。またこの写真は、平成9年6月号「将棋世界」の表紙を飾った。表紙では、ツーショットの部分をトリミングして使用されたが、オリジナルの写真を見ると奥へと続く小径が写ったりしており、広がりが感じられる。
写真(2):
同じく第55期名人戦第1局の終局後の写真。同じカットで別の写真が「将棋世界」に掲載された。写真の記録係の机左側で頬杖をしているのが副立会の淡路仁茂九段、記録係(水津三段)の後ろにいるのがNHK衛星放送の解説の島朗八段、谷川竜王の頭上に写っているのが観戦に来ていた脇謙二七段。また、第1局で弦巻カメラマンは、最終盤の対局中にも撮影をしている。
ちなみに、前年に七冠制覇という前人未踏の偉業を成し遂げた羽生であったが、棋聖を三浦弘行五段に奪われ、竜王戦では、この名人戦の挑戦者でもあった谷川(九段)が竜王を奪取。五冠となって番勝負を迎えていたが、シリーズ4勝2敗で竜王に続き、名人も失冠することになった。一方の谷川は、名人に復位すると同時に名人通算5期で第十七世永世名人の資格を獲得した。
写真(3):
第55期名人戦第3局(平成9年5月7、8日)翌日にホテルをバックに海岸で撮影された写真。対局は、愛知県蒲郡市「銀波荘」で行われ、69手で挑戦者の谷川竜王が快勝した。
平成9年(1997年)5月、この時期にチェスの世界王者カスパロフ氏 対 ディープブルー(IBMスパーコンピュータ)の2度目の六番勝負が行われ、最終戦をディープブルーが19手で勝ち、2勝1敗3引分という結果となった。これをマスコミは大きく報道した。平成9年7月号「将棋世界」に中村修八段が観戦記を担当しており、以下のように記述している。
---(前略)
さて、この原稿を書いているところにあるニュースが飛び込んできた。
「チェスの名人、19手でコンピュータに負ける」。---(中略)---
驚いた。と同時にコンピュータの進歩にも考えさせられた。
チェスと将棋は違うというものの、何れはコンピュータと互角に戦う日が来るものと実感した。
---(中略)---
ただし、将来コンピュータの指し手に感動することができるのだろうか、とも思う。生身の人間同士の対決だから、いい手や悪い手に共感できるともいえるだろう。
---(後略)
写真(4):
平成9年7月24日、兵庫県神戸市「新神戸オリエンタルホテル」で第55期名人就位式が行われる。各界著名人を始め約1,000人が祝福した。この写真はその時の模様で、平成9年10月号に掲載されている。
写真(5):
平成10年4月9、10日、埼玉県所沢市「掬水亭」で第56期名人戦七番勝負(谷川浩司名人 対 佐藤康光八段)第1局が行われる。その前夜祭での写真。左から、副立会の高橋道雄九段、正立会の五十嵐豊一九段、二上達也日本将棋連盟会長、佐藤康光八段、谷川浩司名人。
写真(6):
第56期名人戦七番勝負第1局の対局開始時に両者駒を並べている時の写真。佐藤八段は、第56期順位戦で4局終了した時点で1勝3敗と降級の危惧すらあったが、そこから一転5連勝。6勝3敗で羽生善治四冠とのプレーオフをも制し、名人戦初挑戦を勝ち取った。
写真(7):
第56期名人戦七番勝負は、フルセットの末、4勝3敗で挑戦者の佐藤康光八段が名人を奪取。新名人誕生となった。就位式は、平成10年7月28日、東京都千代田区「如水会館」で行われ、二上達也日本将棋連盟会長から推戴状を佐藤康光新名人に手渡しているところ。