弦巻勝のWeb将棋写真館

粋な将棋指し

更新: 2015年2月5日

大内先生は、以前船橋に住んでいらっしゃいました。家には分厚い将棋盤が何面も、そして駒も何十組とあり、半端な点数ではなかったです。それらを見せて頂き、説明もして頂くのですが、僕は知識がまったく無く、ただただ、その美しさに見入っていたものです。
先生が東京の神楽坂に引っ越しされた頃には僕も将棋関連の本を片っ端から読んで伺ったので、盛上駒は違うな~あとか、おぉ、これ葡萄杢だ、など解るようになっていました。

国内の旅で九州から北海道まで先生に同行した思い出も多いです。
上山温泉の葉山館は先生の後輩五十嵐さんが主。今の宿は新しくなって息子さんが継いでいますが、昔は混浴でした。川端康成の「伊豆の踊子」に出てくる宿のようでした。
此処で先生と当時家族ぐるみでお付き合いのあった女優の吉永小百合さんを紹介して頂きました。映画で観るのとまったく同じで、緊張で挨拶するのがやっとでした。

一緒に居て、先生は我儘だなぁ~、と感じる事も有るのですが、男っぽくて、とにかく粋、駒の動かし方なんてずいぶんマネしたものです。
着流しで神楽坂のおでん屋、古い町並みで写真を撮ると棋士ではなくて、「将棋指し」が写るんです。

この頃は、棋士に会えば、どの本を読めば強くなるか?と聞き回っていました。加藤治郎名誉九段著「将棋は歩から」、木村義雄十四世名人著「将棋大観」の2冊と、必ず名前が挙がるのが「5七銀左戦法」で、これ大内延介先生著の本です。

掲載写真についてのミニ解説(サイト編集部記)

写真上から順に(1):
1988年頃に撮影。釧路の炉辺の店での写真。色紙には、「炉ばたの風情 美しい将棋で言えば 美濃囲いの景観」と記している。
写真(2):
昭和53年に月刊「将棋マガジン」が創刊される。昭和53年3月号のファン交歓というコーナーで女優・吉永小百合さんと大内延介八段の対談が企画された。その時の1枚。この写真は当時掲載はされなかったが、吉永さんと大内八段の親しい間柄を感じ取ることができる一枚で、個人的にはこの写真がなぜ掲載されなかったのか?と思わせる程だ。対談は、東京・将棋会館の特別対局室で行われた。吉永さんの後ろの掛け軸は、画壇の巨匠・梅原龍三郎画伯が認め、昭和36年に寄贈されたもの。レプリカではあるが現在の東京・将棋会館の入り口に木造の看板として掲げている。
写真(3):
昭和63年頃の築地魚河岸での光景。アマチュア同士の縁台将棋を盤側から覗く大内九段。縁台将棋であっても、それを見るのはプロの習性かもしれないが、この場、この時を切りとった一枚は、大内九段の気さくな人柄を見事に表現している。
写真(4):
昭和52年9月13日第25回王座戦三番勝負第1局。相手は中原誠王座であった。東京・将棋会館特別対局室で行われ、125手で中原王座が勝っている。第25回、26回、27回と三年連続で中原-大内で戦っており、いずれも2-0で中原防衛であった。
写真(5):
昭和57年3月15日に行われた名人挑戦者決定リーグ(現在の順位戦A級)の最終局、対米長邦雄棋王戦。順位戦A級最終局は、「将棋界の一番長い日」と呼ばれている。今でこそTVでの生中継が放送され、対局室にもTVカメラが設営されたりするが、当時はまだそんな時代ではなかった。その為、対局室もかなりスッキリとしている。奥に指しかけの盤が写っていることから、対局室は、東京・将棋会館「棋峰」であろう。ちなみに、A級最終局が生中継されるようになったのは、平成9年3月3日第55期順位戦からである。
写真(6):
昭和58年11月4日第42期名人戦昇降級リーグ1組、対勝浦修八段戦の感想戦の模様。田中寅彦七段の案内で、作曲家で指揮者の山本直純さんが見学しにきていた。。山本さんは愛棋家で、氏が中心となり、かつては駒音コンサートを年1回開催していた。写真右端に立ち姿が写っているのが先日亡くなられた河口俊彦五段。
写真(7):
作家・安部譲二氏との二枚落ちでの指導対局の風景。平成二年3月号「将棋マガジン」の企画で"駒落ち挑戦記"というコーナーの中での対局。結果は、101手で上手の大内九段の勝ちであった。奥には、田丸昇七段(当時将棋連盟出版担当理事)、将棋連盟編集部所属(現在は作家)の大崎善生氏の姿もある。