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良寛和尚は今

更新: 2016年7月15日

最近のテレビを観ていて思うのですが、政治家や芸能人のチョンボを捕らえて猫も杓子も安全地帯から正義をかざし「はいチョンボ、はいチョンボ」とがなり立て、これに相乗りのマスコミも連日鬼の首を獲ったような報道。

「どうしたもんじゃろーねぇ~。」良寛和尚ならどう考えるかな~あと思いました。

今回は、まさかコンピューターに将棋を教えてもらうようになるとは夢にも考えなかった時代の先生方を何人か掲載してみます。

皆、個性豊かで良くも悪しくも伝説の一つや二つ持っていらっしゃいました。
でも今と違い、ちょっとしたチョンボは大きな目で笑い飛ばし赦す時代でした。将棋も個性豊かで順位戦B級1組が鬼の住処と言われていました。

先日テレビで「マグノリアの花たち」でジュリア・ロバーツを観ました。こちらの番組の方が連日の報道番組より心模様が数倍良く、とても良い気分になりました。
映画のラストカットなど良寛さんも此の中に居る風に観えたから不思議。

【掲載写真についてのミニ解説(サイト編集部記)】

写真上から順に(1):
故・真部一男九段。「棋界のプリンス」とも言われたその風貌は、今の時代においても全く引けをとらない、まさに画になる被写体だといえよう。若くして俊秀と評されていたが、タイトルを勝ち獲るには至らなかった。第35回将棋大賞で升田幸三特別賞を得た「幻の△4二角」は記憶に新しい。
写真(2):
故・清野(せいの)静男八段。昭和52年に55歳で他界。詰将棋の名手としても名高く、数多くの作品を残している。また、棋風は奔放で独特の序盤構想は現代将棋にも影響を与えた。故・原田康夫九段とは同郷(新潟県)ということもあり、親交が深く、清野が死去の際に月刊「将棋世界」へ掲載された追悼文は原田が書いている。
写真(3):
故・芹沢博文九段。同門の弟弟子の中原誠十六世名人はもとより、故・米長邦雄永世棋聖にも多くの影響を与えた。文筆活動やテレビ、ラジオなどのマスメディアにも多く出演していた。無類の酒好きで、その破滅的な生き方から、数々の逸話を将棋界に残した。芹沢と言えば、昭和56年の第40期名人戦昇降級リーグ1組(現在のB級1組)で谷川浩司七段(当時)との対局。事前に芹沢が「全力で戦う。」と公言し、対局の3日前程から他の仕事を断り、万全の調整を行って谷川との戦いに挑んだ。結果、深夜に及ぶ戦いは、130手で芹沢が勝った。谷川曰く「芹沢先生に本気を出されました。」芹沢の才能を垣間見ることができる対局と言えよう。
写真(4):
故・佐藤大五郎九段。四間飛車を得意とし、薪割り流とも呼ばれた豪快で剛腕な棋風で知られていた。タイトル戦は、第6期王位戦で大山康晴王位に挑戦したが、4連敗で敗退した。必至問題の創作に定評があり、多くの問題を残している。
写真(5):
故・関屋喜代作八段。早見え、早指しで軽快な棋風。アマチュアへの指導対局も数多くこなし、「駒落ち将棋の鬼」と呼ばれるほどで、多くのトップアマも負かされていた。また、山岳写真家としても知られていた。
写真(6):
故・高島弘光八段。切れ味のある攻め将棋が持ち味。師匠は、叔父の高島一岐代九段。物事の筋を通すことに拘る直情的な性格だった。第1期棋王戦本戦トーナメントで優勝。決勝リーグ入りし、内藤國雄九段、大内延介八段(当時)と決勝リーグを戦った。
写真(7):
山口英夫八段。振り飛車党で、特に中飛車から5筋の歩を突かない「英ちゃん流中飛車」の創始者。
写真(8):
故・剱持松二九段。剱持といえば、昭和63年11月22日の第47期順位戦C級1組での対羽生善治五段(当時)戦だろう。誰もが、当時飛ぶ鳥を落とす勢いの羽生が順当に勝つであろうと予想したが、序盤から中盤で剱持が優勢となり、終盤も羽生に逆転の余地すら与えない堂々たる勝利であった。羽生は、結果としてこの敗戦が響き、頭ハネでB級2組への昇級を逃すことになった。剱持のここ一番の強さは、周囲も目を見張るものがあった。
写真(9):
故・松下力九段。A級にも2期在籍し、タイトル獲得歴こそないが棋戦優勝3回しているが、松下を語る上でそれ以上に採りあげるべきは、アマチュアに対する指導が非常に丁寧且つ上手であったことだろう。それ故、指導名人とも呼ばれた。日本将棋連盟で行っていた土曜教室の講師を病気で入院するまで続けていた。

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