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奨励会

更新: 2015年4月20日

今でこそ「お仕事は?」
と問われると
「ハイ、写真を撮っています。」
などと返事ができますが、僕が週刊ポスト創刊で撮り始めた駆け出しの頃、撮影するのは活版のページですから、クレジットなど入る訳も無く、プロとして大きな声で胸を張れる状態ではありませんでした。

名前入りでグラビアを撮るフリーのカメラマンが編集部にライカをぶらさげ顔を出すと憧れのまなざしでした。胸に写真家協会のバッチが光っていました。僕達同期の4人は一応プロの立場だけれど、まだまだ皆、強い自覚が無かったです。将棋の奨励会とは違いますが、今考えてみると参段リーグに居るのと同じ気分かも知れません。

週刊誌の巻頭グラビアを飾る先輩のフリーカメラマンに珈琲に誘われ、そこで苦労話を聞き、感激し、「俺も何時かはフリーになるぞ!」の意気込みで皆居たように思います。スタジオでアシスタントをしていた知人も皆そうでした。

仕事は週刊誌の記事の空いた処を埋めるだけの、煙草サイズくらいの写真で誰が撮ったか解らない写真を毎日撮っていました。たとえば『サラリーマンのボウナス』なる企画で4~6ページだと、万札を経理の女の子にパラパラと開いてもらい、頭越しに撮る。それからタイトルバック用に日銀の建物とか朝の満員ラッシュのサラリーマン、それに新橋あたりで集団で呑んでいるネクタイ姿のサラリーマンを撮る。
掲載されたそんな写真を大事にスクラップブックに貼って、皆ファイルにしていました。
「お前、この東京駅からサラリーマンが出て来る写真何ミリで撮ったの?」
「はい、28ミリで下から撮りました。」
「ふつうなぁ~、脚立持って上から撮るんだよ!」
「レンズは105ミリ、明日もう一度撮って来い!」
「105ミリが写真の神髄だよ!」
先輩に怒られながらも、早朝から夜中まで、何でも撮ってました。
「写ってねぇ~。」
最終電車のつり革につかまり
「俺、写真むいてねぇ~んじゃねぇ~かなぁ~。」
と、怒られてぼ~っとしての帰路も有りました。そんな状態でも、たまに撮った芸能人の写真など、
「これ俺の撮った写真さ。」
とノー天気に自慢しあう訳です。
業界用語で「ガンマル」つまり芸能人の顔だけ丸く掲載した10円玉くらいの写真をです。そんな中、上手い奴はすいすいグラビアを撮るようになりました。
パチンコ屋で何段も箱を積んで居る隣の親爺を見る気分です。なんで俺は・・・ダメなんだ。

使用機材は他の仲間もどういう訳か皆ニコンFでした。これに28ミリf3.5と105ミリF2.5、それに3メートルのシンクロコードを付けた積層電池のカコのp-5と言うストロボが定番。あとセコニックのスタジオデラックスなる露出計。500ミリとかの長い玉は編集部のロッカーに有るから使うのは自由でした。

フイルムはコダックのトライX100フイートが支給され、これを各自パトローネにダークバックとデイロールを使い詰めます。この作業も今のデジタル時代の方は知らないと思います。
100フイートで36枚撮りが18本取れたかと思います。モータードライブを使うのはもう少し後だったように思います。
大阪で行われた万博の頃から事件も撮るようになり、三島由紀夫の市ヶ谷駐屯地でバルコニーでの演説を下から撮っていました。その翌年の新年号グラビアでトランペッターの日野皓正さんを撮ったのが僕の最初のグラビアです。
どの世界もそうですが運も有ると思います。
忘れられない失敗談は、お金を貯めてようやく買った中古のニコンのSP。女の子とディスコに行き、踊っている間に盗まれたことがありました。
『黒ネコのタンゴ』や『ドリフのズンドコ節」が流行っていました。今思えば、まだまだアマチュアだったと思います。

現像はコダックのD-76を原液1に水1で20度10分のタンク現像でした。この現像時間は撮影内容によって変わるのですが、かなり抽象的な言葉で、「気持ちアンダー・・・気持ちオーバー」など感覚的な感じです。ASA400の感度を800に増感したりもする訳です。
曇りの日、晴れの日、室内、コントラストなど全体を理解し、仕上がりまで想像する必要が有りました。本を読んだり実験したりの毎日でした。最近思うのですが、 気持ちとかの抽象的な言葉はデジタル時代の写真に不必要なのでしょうか?

フイルム時代と今のデジタル時代の一番の違いは銀塩は撮った後、現像するまで写って いるかどうか確認できない事と思います。
その為、失敗するリスクをどれだけ排除できるかがプロとしての最低限度の技術で、その上で良い写真が撮れるかが勝負です。
今は名刺にプロカメラマンと印刷して出しても、カメラ技術はコンピューターですからセンスさえ良ければ務まる時代かもしれません。

努力している奨励会の皆さんの気持ち、苦労してきた僕だから良く解ります。
トッププロの勝率は6割。しかし奨励会を抜けるには7割が必要と聞きます。悩み苦しんでもなかなか抜けられない。でも努力を継続する事だと思います。火で温めているヤカンの水は必ず時間がたてば沸騰し質的変化に至ります。
負けた時は原因を先輩に聞き、気分を早く入れ替え次に備えると良いかと思います。どの道に進んでも楽な道は無いのだ思います。なんせコンピューターと戦う時代ですから、こんな僕でもプロになったのですから頑張って、応援しています。

【掲載写真についてのミニ解説(サイト編集部記)】

写真上から順に(1):
奨励会最終面接試験の様子。写真右から、板谷進九段、有吉道夫九段、大山康晴十五世名人、二上達也九段等当時理事会のメンバーと精神科医師の春原千秋氏と読売新聞社・山田史生氏の姿がある。なお、春原氏の後ろに少し写っているのが、松浦隆一七段で当時の奨励会幹事。
なお、関西圏の受験生は関西将棋会館で受検するが、この時の奨励会試験は、特例で1次が東京で、2次は東西に分かれ、そして最終面接が再び東京で行われた。作文も試験科目にあり、この時の題材は「将棋と私」であった。作文を読み上げている様子が写っている。
写真(2):
奨励会員を前に話しをする大山十五世名人。現在、奨励会試験は8月に行われているが、当時は10月~11月に実施されていた。この写真が撮影されたのは、奨励会の「研修会」の時(1983年11月3日)と思われる。研修会と言っても、現在のそれとは全く異なり、月に1回奨励会員を集め、対局の他に清掃、棋士や外部の人の講演などが行われ、それを「研修会」と言っていた。そして、その時に合わせて昭和58年の奨励会試験の合格内定者が最終面接に臨んだ。後にも説明するが、この時に(故)村山聖九段、中川大輔八段、畠山成幸七段、櫛田陽一六段、勝又清和六段、近藤正和六段、中井広恵女流六段他、全部で19名が合格している。
写真(3):
1983年12月新入会の19名の記念撮影。写真最前列左から、村山聖5級、近藤正和6級、二人おいて、石堀浩二6級(現・指導棋士四段)。中列左から、二人おいて中川大輔6級、二人おいて、中井広恵6級、勝又清和6級。後列左から、四人目が櫛田陽一1級、一人おいて一番右が畠山成幸6級。この時に、アマ時代の輝かしい経歴を引っ提げて鳴物入りで合格、奨励会入会を果したのが櫛田だった。そもそも1級合格がその証だ。しかし、初例会で3連敗と奨励会の厳しい洗礼を浴びる結果となった。一方で村山、中川は3連勝であった。ちなみに、羽生善治名人は、当時1級で13歳だった。
写真(4):
1991年9月5日の奨励会の様子。奨励会幹事の神谷広志六段が奨励会員に話しをしているところから、対局前の朝であろう。4月から行われてきた前期三段リーグはこの時をもって四段昇段者2名が決まる。
写真(5):
三段リーグ最終日の第1局目(17回戦)。東京・将棋会館の飛燕・銀沙で対局は行われているが、かなりの鮨詰め状態だ。盤側にいる奨励会員は、秒読みを担当していた。当時はまだ秒読み機能が付いた対局時計がなかった。その後、間もなく秒読み機能付きの対局時計が発売され、例会に導入された。当時奨励会幹事だった神谷八段に尋ねたところ、神谷八段が幹事を務めていた時に切り替えた、とのことだった。
なお、写真は、手前側一番右で対局をしているのが豊川孝弘三段(現七段)。この時点で11勝5敗で順位が3位。順位2位で同じ11勝5敗で真田圭一三段(現七段)が、そして順位4位でトップを走っていたのが、12勝4敗の深浦康市三段(現九段)だった。その他11勝4敗で、近藤正和三段(現六段)、中座真三段(現七段)、金沢孝史三段(現五段)が続き、大混戦の様相を呈していた。
写真(6):
昇段最有力候補であった深浦三段であったが、1局目を落としてしまう。これによって一転、自力の目がなくなってしまったが、午後からの2局目の対局をあっさりと勝つ。写真はその時に撮影されたのもの。こちら側に向いているのが深浦三段で、その対局相手は、三浦弘行三段(現九段)。勝った深浦三段は、自身の昇段の行方を真田三段 対 石飛三段戦と豊川三段 対 小河三段戦の結果に委ねることになった。そして、豊川三段が勝ち昇段を決め、真田三段が負けた為、深浦の四段昇段が決まった。真田三段にとっては痛恨の敗局となったが、なんと次期三段リーグを1位で四段昇段を決めた。
写真(7):
三段リーグ最終日の打ち上げで四段昇段を決めた豊川三段、深浦三段の昇段を祝っての乾杯。写真左から、毎日新聞社記者・山村英樹氏、神谷広志六段、豊川孝弘三段、深浦康市三段、大野八一雄五段。

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