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名人戦

更新: 2015年3月20日

7つのタイトル戦が、それぞれ4局で終わったとして年間で28局。
他に朝日杯将棋オープン戦やNHK杯の決勝など入れると30局。40年近くタイトル戦を撮ると約1,000局近く撮った事になるのでしょうか。

当時の先生方はタイトル戦の中で名人戦だけは何かが違うと言う考えを語っていました。将棋の神が宿る勝負と言われていました。今はそのように考える先生は少ないのでしょうが、名人戦を撮りに行く僕達も桜の咲くこの頃はネクタイこそしませんでしたが、トラディショナルな服装を心掛け、レンズを磨き、浮き浮きしながらも荘厳な気持ちが湧き上がってきたように思いました。

名人戦の一日目、緊張の振り駒を撮影すると昼の再開を2、3分撮り、後は封じ手まで時間が有りました。
そんな時立会人の先生と近くの名所を散歩しながら、昔の将棋界の話をたくさん聞かせて頂きました。今はそんな長閑なムードは無いのかも知れません。また、人里離れた対局場の時が有り、近くにコンビニなどは無く、タクシーで3千円かけて7百円の弁当を買いに行った笑い話のような思い出も有ります。

加藤一二三名人対谷川浩司八段戦(第41期名人戦七番勝負)の頃は局を重ねるごとに報道陣の数も多くなり、新聞社の担当者は対局室に入りきらない人数を、そのつど、しっかりと打合せをして進行していました。
タイトル戦は何局か経験しないと初めてのカメラマンでは流れが解らなくて、立ち位置も決まらず撮れないです。「振り駒や封じ手」の意味が解らない人もいましたから。記者会見での撮影とは違うのでプロでも、なかなか慣れないと大変です。撮影の流れなどアドバイスしました。

タイトル戦を撮るには数日前に新聞社の担当、そして立会人の先生に電話で挨拶。前夜祭で両対局者に挨拶し、雑誌名やグラビアのページ数など話をしました。

最近タイトル戦を撮っている人の話を聞くと中野英伴さんと僕が撮っている頃とずいぶん様子が違うと言います。携帯で撮る人も居るとか…好き勝手にカメラを振り回し動き回って和の空気を散らかしたら撮っても画にならないと思います。まず大事な事は対局者に迷惑をかけない事。そして場の空気を壊さない事と思います。
英伴さんと僕はお互い今何ミリのレンズを付けているか見れば解りますのでフレームに入りそうな時は目で合図し、譲り合って撮っていました。今の時代はズームレンズですから、何ミリか解りにくいかも知れませんね。撮影後は亡き英伴さんと打ち上げで酒を酌み交わし写真や文学を語ったのも懐かしい思い出です。

どの名人戦も思い出に残っていますが谷川浩司先生が名人になられた時のインタビューで「名人を預からせて頂きます」の言は今も忘れません。名人戦を僕はいつも特別な気分で撮っていたように思います。

【掲載写真についてのミニ解説(サイト編集部記)】

写真上から順に(1):
昭和53年第36期名人戦(中原誠名人 対 森けい二八段戦)第4局での1枚。右が中原誠名人で、左側が森けい二八段。この番勝負は、話題の多かったシリーズで知られている。森八段が対局当日に剃髪姿で現れ、これが後に伝わる「森、剃髪の挑戦」となった第1局。第3局ではNHKが名人戦2日間を密着取材。対局室には初めてテレビカメラが据え置かれた。その模様は、後日「NHK特集」の「勝負-名人戦第三局より」で放映された。
写真(2):
昭和56年5月6、7日に行われた第39期名人戦七番勝負(中原誠名人 対 桐山清澄八段戦)第3局。愛知県「銀波荘」での一枚。立会人で広津久雄八段の姿も写っている。超ローアングルから撮影し、対局者2人の終局直後の強張った表情が印象的だ。
写真(3):
第40期名人戦七番勝負(中原誠名人 対 加藤一二三十段戦)は、名人戦史上稀代の激闘シリーズとなった。対局者二人は、持将棋、千日手を含め計10局を戦うことになった。この写真は、昭和57年7月5、6日「湯河原 清光園」で行われた第7局に撮影された。過去に別媒体に掲載されたことのある写真なので、ご覧頂いたことのある方も多いのではないだろうか。相手側つまりこの場合、上座側にまわって手を読む姿は有名。また、タイトル戦でもスーツ姿で対局をするのは、加藤十段の特有の流儀。
写真(4):
第40期名人戦七番勝負(中原誠名人 対 加藤一二三十段戦)第4局(昭和57年5月20、21日)、山梨県山中湖村「ホテルマウント富士」での一枚。写真左から副立会の大内延介八段。立会の丸田祐三九段、作家の斎藤栄氏、一番右が米長邦雄棋王。報道控室で局面を検討している。斎藤氏は数多くの推理小説を書き下ろしており、将棋を題材にした小説も執筆している。窓の外には山中湖が見える。
写真(5):
花村元司九段に麻雀の教えを乞う谷川浩司八段。第41期名人戦七番勝負(加藤一二三名人 対 谷川浩司八段)の恐らく第2局終了後のワンシーンだと思われる。
写真(6):
第41期名人戦七番勝負(加藤一二三名人 対 谷川浩司八段)第5局(昭和58年6月1、2日)終局直後の模様。谷川八段が3連勝で名人位奪取にあと1勝としたが、第4、5局と加藤名人が意地で2勝を返す。写真からも見てとれるように、谷川新名人誕生に備え、報道陣の数も相当であることが分かる。当然のことながら、弦巻氏の文中にも記されていたように、報道専門のカメラマンも混じっていたことだろう。
写真(7):
森安秀光八段が名人戦に初めて挑んだ第42期名人戦七番勝負(谷川浩司名人 対 森安秀光八段)第1局が昭和59年4月11、12日に神奈川県・川崎市民プラザで行われた。この写真が撮影されたのは、1日目の夕方にさしかかる頃かと思われる。弦巻カメラマンや亡くなられた中野英伴カメラマンを始め数人は、対局中に入室して撮影することを許された。凛とした雰囲気が写真から漂っているのは、その為だ。

補足:タイトル戦は、番勝負が終了したしばらく後に、勝者の就位式が執り行われる。その中で渡されるのが名人戦の場合「推戴状」である。各棋戦呼び名が異なり、竜王戦の場合「推挙状」、王座戦は「允許状」、王将戦は「贈位状」、王位戦、棋王戦、棋聖戦は「就位状」と呼ぶ。

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