日本将棋の歴史(16)

将棋大成会の結成

将棋界の分裂騒動の際に中立の立場を崩さなかった関根名人は、「時の氏神」として兄弟子の小菅剣之助八段に調停を懇請します。応諾した小菅は関係者と会談を重ねます。その結果、1936年(昭和11年)6月29日に東京・上野「精養軒」で、日本将棋連盟、日本将棋革新協会、十一日会が手打ち式を行い、約7カ月に及んだ分裂騒動は収束、三団体は解散して、新たに「将棋大成会」(小菅の命名)を立ち上げました。

将棋大成会の結成式。左から海老塚薫理事、花田、金、神田、小菅の各八段、関根名人=1936年6月29日
将棋大成会の結成式。左から海老塚薫・新理事、花田八段、金八段、神田八段、小菅八段、関根名人=1936年6月29日、東京・上野「精養軒」で。「将棋日本」1936年7月号掲載

棋界統一までの経緯

画期的な実力名人戦が開始されたにもかかわらず、将棋界が分裂したままでは先の見通しが立ちません。とりわけ好成績を挙げている木村義雄八段と花田長太郎八段との対局が実現しないのでは盛り上がらない、ということ関係者は苦慮していました。大崎熊雄八段が病気で対局ができず、日本将棋連盟の評議員会では1936年4月24日に萩原淳七段の八段昇格を決議していました。
そうした状況の中、1893年(明治26年)1月6日に逝去した伊藤宗印十一世名人の偉業をたたえ、門弟の小菅八段が昭和11年5月25日に東京市小石川区(現・東京都文京区)音羽の護国寺に「棋聖宗印之碑」を建立します。この式典には分裂した両派の棋士、関係者の多くが参加、旧交を温め、棋界統一の機運は熟してきます。
ここからは、分裂に頭を痛めていた関根名人が小菅八段に調停を懇請してからの動きを順に見ていきます。

▼6月23日 関根名人、木村八段、山本樟郎七段(やまもとくすお・小菅八段門下)が伊勢四日市の小菅邸へ出向き、調停を懇請、小菅は固辞したものの度重なる要請に、ついに承諾します。
▼6月25日 関根、木村、山本の三氏が、合同に動いていた海老塚薫氏とともに中島富治邸を訪問。
▼6月26日 小菅八段、神奈川の戸塚の別邸入り。
▼6月27日 中島氏、小菅邸訪問。山本七段を加えた三人で、上野精養軒で会食。
▼6月28日 関根名人、金八段、中島海老塚両氏が小菅邸訪問。
▼6月29日 午後5時、上野精養軒で将棋大成会結成式挙行。大阪から木見、神田両八段も参加。棋士、愛棋家、新聞社関係者ら約100人が集まりました。

まさにアッという間の収束でした。

將棋大成會結成を伝える雑誌記事

「将棋日本」(昭和11年8月号)の"合同日誌"から。
《  三團體聲明書  多年の希望であつた棋界統一の機運は遂に惠まれました。本日を以て夫々の棋團を解散し新團體を結成することになりました。吾々は之れによつて棋道の向上棋界の進展、期して待つべきものあるを確信いたします。
 昭和十一年六月二十九日
              日本將棋聯盟會長 金 易二郎
            日本將棋革新協會會長 花田長太郎
                十一日會會長 神田辰之助
 續いて新團體結成に移り、關根名人滿場に諮りて小菅翁を議長に推す。
 小菅翁議長席に就き結成を宣し、滿場の委託に基きて會名を「將棋大成會」と定む。滿場拍手。更に滿場一致の委任により左の通り役員を指名す。
△會長 關根名人 △副會長 花田八段 △幹事長 木村八段△幹事 山本七段 渡邊七段 山北六段 建部六段 加藤五段  △評議員 土居八段 大崎八段 金八段 金子八段 萩原八段
宮松七段 小泉七段 飯塚六段 平野六段 △理事(※のちに相談役と改める) 中島富治氏 海老塚薫氏 △関西支部役員 追て定める(※のちに支部長 神田八段、相談役 木見八段、幹事長 藤内六段)

 大成會聲明書
 棋界の統一は多年の宿望でありましたが遂に達成せられ、本日を以て日本將棋聯盟、日本將棋革新協會、十一日會の三團體を解散し、全國を打つて一丸とせる將棋大成會が創立されました。本會は會員克く自制、克く結束、斷乎として諸情弊を剪除し一意棋界の進歩發展に邁進する覺悟であります。尚名人位決定戦は新たに神田、萩原兩八段を加へて直ちに續行いたします。
  昭和十一年六月二十九日
              將棋大成會會長
              第十三世名人 關根金次郎 》

木村八段の述懐

 木村八段が6月に四日市の小菅邸を訪ねた時の状況が、その著書『ある勝負師の生涯 将棋一代』(文春文庫)に詳しく述べられています。

《『小菅さんに調停を頼むつもりだ、君も一緒にいってくれ』と、関根名人にいわれて、私も考えていたことだから、早速同意して、名人と私と、幹事の山本樟郎七段と、三人で四日市へ赴いたのは、昭和十一年六月であった。
 名人から来意を聞かれると、予て事情はわかっていたから、小菅氏も難色を見せながら、
『折角のお頼みだから、私で役に立つことなら、出まいものでもないけれど、また感情を刺戟しても困る、大丈夫かね』といわれた。それで脈のあることはわかった。
『一時はどっちも意地を張って、妙にこじれていたけれど、今では大分熱も冷めて、いくらか落着いたようですから、ここであなたが乗出して下されば、きっと納まると思います』
『しかし、仮りに納まるとして、あとの仕事は誰がやるんです』
『それは皆でやりますよ』
『中心がなくてはならぬ、役員はどういうことになります』
『それは木村なんかがいますから、皆と相談してやるでしょう』
 そこで小菅氏は、初めて私のほうを向いて、
『君、やってくれますか』と聞かれた。
『なかなかむずかしいと思いますけれど、会のためということでしたら、及ばずながら全力を尽して、犬馬の労をとるつもりで居ます』
 私はそれだけ答えて、外のことは何もいわなかったが、小菅氏は一つ点頭(うなず)くと、
『それなら出よう、善は急げというから、今晩直ぐ立って、一緒に東京へ行きましょう』といわれた。いよいよ決心されると、足許から鳥の立つような神速さだった。》

小菅、初の名誉名人に

 分裂していた日本将棋連盟と日本将棋革新協会と、さらに十一日会も含めて大同団結した将棋大成会は、和解成立に多大な貢献をした小菅八段(号・冠峰)に、1936年(昭和11年)11月6日付で史上初の「名誉名人」を贈り、その功績をたたえました。
関根名人は、この時、小菅に十四世名人に就位し、棋界を統率してほしい、と依頼していましたが、71歳だった小菅は、この申し出を固辞します。関根は、やむなく「名誉名人」を贈り、深い感謝の意を示しました。
当時の雑誌記事(「將棋日本」1936年12月号。原文のママ)を見ていきます。

《  聲明書
小菅劍之助氏は四十餘年前棋界を退かれましたが當時十一世名人伊藤宗印師門下隨一の高足として棋力一世を風靡し引退後も二十餘年間時々對局されましたが棋力毫も衰へず却つて愈々洗練の加はれるを顯示したのであります、若し夫れその人格識見に見つては今更申述べる必要もなく一世の師表と仰ぐべきであります。
關根名人は豫て同氏に私淑する處深く此際同氏が躍進途上にありて成すべきこと多き現棋界に復歸し十四世名人として棋界を統卒し新制度に依る名人決定後も引續き總裁としてその餘りある聲望識見を以て棋界を指導されんことを哀心希望せられたのでありますが、謙抑なる同氏は之を固辭して請けられず遺憾ながら同氏の現役復歸は期待し得ないので本會はこゝに全會員一致の決議を以て同氏に棋道三百年前例なき名譽名人を贈りその棋歴を表彰することゝいたしました。この擧は素より今後に例を成すものではありません。
 昭和十一年十一月六日              將棋大成會

名譽名人贈位状の文面

「ご令孫・小菅弘正氏所蔵」(関西将棋会館に寄贈された)
「ご令孫・小菅弘正氏所蔵」(関西将棋会館に寄贈された)

  状
棋歴ニ鑑ミ全會員
一致ノ決議ニ依リ
名譽名人ヲ贈ル

昭和十一年十一月六日
 將棋大成會
 會長十三世名人關根金次郎

小菅劍之助殿  》(原文のママ)

小菅 剣之助(こすげ・けんのすけ)略歴<

小菅剣之助名誉名人

1865年2月19日=元治2年1月24日=生まれ。伊藤宗印十一世名人門下。愛知県尾張国愛知郡笠寺村(現・名古屋市)出身。1906年(明治39年)八段。実業家、衆議院議員1期。将棋界が分裂した際に調停の役割を果たし、1936年(昭和11年)の「将棋大成会」結成に尽力した。同年、名誉名人の称号を贈られた。伊藤宗印十一世名人の実戦集『将棋名家手合』を出版した。1944年(昭和19年)3月6日逝去。
※西暦(太陽暦=グレゴリオ暦)と連係した新暦は、1873年(明治6年)1月1日に施行されたため、1872年(明治5年)までは、西暦年と完全には一致しません。