辿り来て未だ山麓

更新: 2016年11月15日

ひと昔前の将棋連盟は、少し風変りな将棋の先生も多く、一つの道を追求する集まりですから、[普通は]と言う言葉では通用しない事も多々有りました。

「八段と四段が同じ一票はおかしいだろ・・・何が民主主義だ。」
棋士総会で立ち上がり発言する先生がいた時代です。そんな時代に同世代の棋士の先生と呑みに行くと
「選挙変でしょう・・・弦巻さん・・・僕の一票師匠に取り上げられるんですよ・・・。」
「連盟に民主主義なんて無理なんです。」
まあいろいろ有るけれど個性豊かでそれなりに回って居るから将棋界も面白かった訳です。

コンピユーター時代の今、将棋の向かっている先がどうも学術的な方向に感じています。社会的にも問題を起こさぬエリート棋士を育て総合的な八方美人を求めている風に僕などは感じています。

昔は升田幸三先生のように戦地の夜空に将棋盤を浮かべ一人研究し、争いの気を膨らませた時代が有った訳で、升田先生NHKの本番中にトイレに立ってしまうしね。ラジオのトークショウに呼ばれて、な~んも語らず咳払い一つで謝礼もらった先生も居たとか普通の努力では辿り着けない世界の人達だと僕は思うんです。そんな世界を僕は今も撮りたいと思っています。

信号の青は進め、信号の赤は止まれ、僕は信号が黄色のあいまいな判断が、なんだか文化的な気がします。黄色でも命がけで渡っちゃいますけど。

ルール、ルールで物事決められるなら立会人は要らないように思うんです。先輩立会人に一任が昔で、黒と言ったら黒、白と言ったら白でした。将棋は勝てば良いと、端歩突き越され受ける棋士の将棋が多くなったら寂しい。
気合いとか根性とかをコンピューターならどう写すのでしょうか。 検索したら出るのかなぁ~。

連盟近くの喫茶店で待ち合わせ、その後先生行きつけの鮨屋でご馳走になったんです。何の事は無い。息子さんが写真始められ、まぁ、自慢話聞くのと、ほんの少し僕のアドバイスの場でした。
今、息子さんの祥三さんは有名な写真家になられ何冊も写真集を出版されています。かなりマニアックですが、その道の第一人者です。

掲載写真についてのミニ解説(サイト編集部記)

写真上から順に(1):
平成10年8月17、18日に長崎県佐世保市「弓張の丘ホテル」で行われた第39期王位戦七番勝負第4局での一枚。羽生善治王位に佐藤康光名人が挑戦した。羽生は、佐藤の挑戦を退け、王位6連覇を達成、四冠を死守した。別のカットの写真が当時の月刊「将棋世界」の巻頭カラーに掲載された。なお、この対局の約1週間前の8月9日に村山聖八段(当時)が29歳の若さでこの世を去った。
写真(2):
撮影年月日の詳細は不明。原田泰夫九段の相手は、現在の潮隆次指導棋士六段で当時奨励会に在籍中の頃か、もしくは、週刊将棋の記者当時の頃か、詳細は不明。
写真(3):
第40期名人戦七番勝負第4局(昭和57年5月20、21日 於:ホテルマウント富士)での一枚。中原誠名人に加藤一二三九段が挑戦したこのシリーズは、名人戦史上稀に見る激闘となり、持将棋、千日手を含み計10局を両者が戦った。結果、加藤が初の名人を奪取した。
写真(4):
第19期棋王戦五番勝負(羽生善治棋王 対 南芳一九段)第3局(平成6年3月4日 於:新潟県新潟市「イタリア軒」)での一枚。羽生は、この対局を勝って3連勝で棋王を防衛。翌年の第20期も防衛し、連続5期による永世棋王の称号を取得した。
写真(5):
佐藤康光竜王に羽生善治名人が挑戦した第7期竜王戦七番勝負第1局は、平成6年10月18、19日にフランス・パリ市「ホテル・ニッコー・ド・パリ」で行われた。この時、佐藤はパリを訪れるのは2回目で、羽生はパリを訪れるのは初めてであった。以来、羽生は、チェスの大会などで何度となくパリを訪れている。以前にも記載したが、不思議な巡り会わせで、竜王戦の2度目のパリでの対局も、両者が訪れることになるが、羽生は挑戦者として、そして佐藤は副立会としてであった。ちなみに、写真中央は、立会を務めた勝浦修九段。
写真(6):
第52期A級順位戦最終局(平成6年3月1日)の際に撮影された一枚。加藤一二三九段(左)と東和男七段(中)、石田和雄九段が揃って東京・将棋会館にむかう道を歩いているところ。この年のA級は最終局で谷川浩司王将が羽生善治棋聖を下し、7勝2敗で同星に並んだが、3月18日に行われたプレーオフでは、羽生が勝ち、米長邦雄名人の挑戦者となった。
写真(7):
平成6年5月19、20日に北海道札幌市「京王プラザホテル札幌」で行われた第52期名人戦七番勝負(米長邦雄名人 対 羽生善治棋聖)第4局の前夜祭の時に撮影されたもの。この時の立会は、内藤國雄九段であった。この対局は、米長が勝ったが、七番勝負は、羽生が4勝2敗で初の名人を奪取した。
写真(8):
平成10年1月頃に撮影されたものだが、詳細は不明。東京・将棋会館の桂の間でのものだが、左から高橋道雄九段、森けい二九段、先崎学九段が検討をしているところ。先崎が並べている対局は、竜王戦ランキング戦2組の青野照市九段 対 福崎文吾八段(段位は共に当時)戦だ。
写真(9):
平成13年4月12、13日に三重県鳥羽市「戸田家」で第59期名人戦七番勝負第1局が開幕。丸山忠久名人に谷川浩司九段が挑戦した。この時に立会を務めたのが、五十嵐豊一九段だった。窓際の椅子から外を眺める姿は、風格を感じずにはいられない。
写真(10):
平成8年7月30日に第67期棋聖戦五番勝負第5局が新潟県岩室温泉「高島屋」で行われた。この対局は、羽生善治が七冠として防衛に挑んだ棋聖戦であったが、三浦弘行五段の挑戦を受け、2勝3敗で棋聖を失冠した。三浦は、羽生の七冠の一角を崩した棋士として一躍有名となった。写真は、その終局後を撮影したもの。報道陣の多さがその話題性を物語っている。

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