丸田祐三先生の事

更新: 2016年10月15日

僕にすれば、おっかね~先生だという記憶で一番は、やはり丸田先生です。将棋連盟の理事室に呼ばれてよく怒られました。
苦虫噛み潰した顔で目ぎょろぎょろ。ただ、きちんと説明すれば解ってくれる先生で金歯むき出しの笑顔は好きでした。

タイトル戦で正立会の先生、朝の対局開始に僕の隣には場数も同じくらいのNHKの恵下ちゃん。場を観ていて彼僕に耳打ち
「あれ丸田先生怒るな・・・。」
地方のテレビ局の報道カメラに丸田先生が
「おい、君・・・」
の掛け声一つ。で、そのカメラマン大きな機材持ったままスッテンコロリ。居合い抜きみたいな感じでした。

封じ手の作法の問題で怒っていらっしゃるのだが、このカメラの方は初めての事でそれが解らない。控室に戻ったそのカメラマンとディレクター、僕に意味を聞きに来たので、後の対応と意味を教えました。おっかね~から帰る訳にもいかないもんね。

呑み過ぎで二日酔いの朝
「連盟の丸田先生からお電話ですよ・・・。」
僕は布団から飛びあがったね。
「俺また何かしでかしたかもしんねぇ。」
「君、今日の夕刻どうなっている・・・相談が有るんだ・・・。」
「はい、何処へでも参上致します。」

連盟近くの喫茶店で待ち合わせ、その後先生行きつけの鮨屋でご馳走になったんです。何の事は無い。息子さんが写真始められ、まぁ、自慢話聞くのと、ほんの少し僕のアドバイスの場でした。
今、息子さんの祥三さんは有名な写真家になられ何冊も写真集を出版されています。かなりマニアックですが、その道の第一人者です。

先生の晩年、僕の週刊誌連載ページにに出て頂いたです。お元気で2時間以上も話をしてくれました。その時庭で撮らせて頂いたカット、ズボンのベルトが飛び出していました。先生に触って直せば良かったと今思います。恥ずかしいのも有るし、高齢で温厚になられた先生に僕はまだビビッていました。 先生のお通夜の晩、息子の祥三さんと手を握り合ったです。解る人には解る優しい先生でした。

掲載写真についてのミニ解説(サイト編集部記)

写真上から順に(1):
丸田祐三九段と言えば、歩の使い方が絶妙なことから「小太刀の名手」と呼ばれた。また、9七角ひねり飛車は、丸田九段が指した新手で丸田流ひねり飛車と呼ばれている。写真では、煙草を燻らす姿が写されているが、缶ピースを愛煙し、盤側には常に置いてあった。
写真(2):
昭和51年の十段就位式の際に撮影された一枚。昭和51年の就位式であることから第14期十段戦を4勝連勝のストレートで防衛した中原誠十段の時の頃のものだろう。
写真(3):
新春将棋まつりの時に撮影された一枚らしいが、詳細は不明。席上対局の対戦相手は、故・米長邦雄永世棋聖。
写真(4):
パーティーの時の丸田九段を撮影したもの。何のパーティーかは、記載がないので不明であるが、近代将棋社長の永井英明氏や大山康晴十五世名人の姿があることから1980年代頃に撮影されたものだろう。
写真(5):
碁を打っている左側が井口昭夫氏(毎日新聞社)で右側が真部一男九段。それを見ている丸田九段。
写真(6):
寿司屋での一枚。丸田九段の手前に座っているのが弟子の武市三郎七段。
写真(7):
この写真も詳細は不明だが、名人戦控室で撮影されたものらしい。まるで自宅のようにくつろぐ姿が印象的だ。
写真(8):
平成9年(1997年)5月7、8日に第55期名人戦七番勝負(羽生善治名人 対 谷川浩司竜王)第3局が愛知県蒲郡市の「銀波荘」で行われたが、その立会を務めたのが丸田九段。対局室から出てくるところを撮影した写真だ。ちなみに、第3局は谷川竜王が69手で勝利している。
写真(9、10):
共に2011年2月3日に丸田九段宅で撮影されたもの。弦巻カメラマンは、『週刊大衆』の「人間力」というコーナーで多くの芸能人や文化人のポートレートを撮影している。その中で撮影されたものだが、人物という観点から撮影された写真は、被写体の人生や哲学が今にも滲み出てくるようだ。

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