前回に引き続き「九州研修会」の後編です。 この研修会には、常勤幹事として中田功八段がおりますが、今回は彼の話をしましょう。
私と中田八段の付き合いが始まったのは1981年(昭和56年)、私が26歳(六段)、彼が13歳(奨励会6級)のころだったと記憶しています。
どういう経緯で付き合いが始まったのか詳しくは忘れましたが、思うに、永井英明氏(雑誌・近代将棋 =現在は廃刊=の社長、また、NHK杯戦の名司会者としても名を馳せた)の関係だった気がします。中田少年の才能を見込んだ永井氏が、「中田少年が伸び悩んでいます。前田さん、彼に将棋を教えてやってください」といった話を持ち掛けてきたのが、最初のきっかけだったかと......。
永井氏は大山康晴十五世名人ととても親しく、中田少年の才能を見込んだ永井氏が大山名人を紹介し、彼は大山名人門下として将棋人生のスタートを切ります。中学1年生で親元を離れ、単身、上京。世田谷区経堂にあった「雑誌・近代将棋社」に住むことになります。当時、近代将棋社は永井氏の実家の敷地にあり、母屋には永井さんのご母堂が一人で住んでいて、中田少年の身の回りの世話はご母堂がやることになりました(永井氏自身は、中央林間&代々木にマンションを持っており、そこに住んでいました)。
私は当時、大山名人に目を掛けられていた関係にあり、永井氏ともしょっちゅう会う仲でした。その永井氏から前述の声を掛けられたのですが、その時の私の感想は、「??? なんで私が......」というものでした。
奨励会に入った少年が伸び悩むことはよくあること。地方では天才少年であっても、中央に来てみれば "その他、大勢""ただの人"ということです。世の中は広いのであります。
永井:「何とか個人指導を引き受けてくださいよ」
前田:「はぁ~......」
私が返事をためらうには訳がありました。単純に言えばお金の問題なのですが、そんなことよりも、" 頼み方"が気に入らないのです。
個人指導とは、いわば「家庭教師」。当然、「報酬」が発生するはずです。永井氏もそれは知っているのですが、なかなかその話はしてこないのです。知っているがゆえに、まず最初に「2時間程度の指導で、〇万円でいかがでしょうか?」と条件を提示してくるのが普通でしょう。ところが、頼みごとだけはするものの、肝心・要の「条件の提示」がありません。
シレッとした感じで、人を"タダ働き"させようという、その考え・根性がどうにも気に入らなかったのです。
今の私だったらこちらから、「分かりました。では2時間程度で〇万円ではいかがでしょうか?」と言えるのですが、当時(昭和の時代)はお金のことを言うと、「アイツは金に汚い野郎だ」とレッテルを貼られる時代でした。よって、私の方からギャラの話をするようなことはできず、永井氏もまた、それを承知で上手く利用している気がしたのです。
さらに、永井氏は前述したように大山名人と親しく、その御仁からの頼みごととあっては、(大山名人に可愛がられていた私としては)永井氏の申し出を断ると、大山名人と私の関係も不味くなるのでは、ということも永井氏は計算ずくなのです。どうにもそれが......永井氏のことは好きなのですが......。
ンでも、結局、弱者の立場としては断り切れず、"家庭教師"を仕方なく引き受けることになってしまったのですね~。しかし、これが"エライコッチャ"になるのでした。
レッスン初日、私は自宅で中田少年の到着を待っていました。ところが、約束の時間になっても現れません。10分・20分と時間だけが過ぎてゆき、結局、2時間遅れで少年はやって来たのです。アッたく、どういうことだ!と思ったのですが、さらに驚くことは、「こんにちは」の挨拶もなく、大遅刻の非礼を詫びようともしないのです。また、「これからご指導、よろしくお願いいたします」の言葉もありません。いったい親はどういう躾けをしているんだと思ったのは言うまでもなく、「ア~ァ、これでは先が思いやられるナ」というのが、その時の偽ざる感想でした。
それでもなんとか指導がスタートすることになり、まずは今後の指導方針を決めるため、少年のお手並み拝見と「一番手直り」で指し始めました。「平手」からスタートし、「香落ち」→「角落ち」→「飛車落ち」→「飛香落ち」と、私に手もなく捻られ、とうとう手合いは「二枚落ち」になりました。その手合いではさすがに負けましたが、弱いのナンノ、ナンノ陽子。
私は当時26歳で、順位戦の「B級2組六段」に昇級・昇段したばかりでした。その日常は多忙、といっても仕事=将棋の対局=のほか、「お酒」・「カラオケ」・「麻雀」が忙しかったのですが、ナンにしても時間はいくらあっても足りなかったのです。そういう状況下に、少年へのレッスンが新たに加わったものですから、も~うタイヘン。半分、自棄(ヤケ)になり、「あれこれ考えてもしょうがない。平穏な日常を取り戻すためには少年を早く強くさせ、手が離れるようにするしかない」と思ったのです。本心は、適当な理由を付けて家庭教師を断りたいのですが、永井氏と大山名人の関係からそれができないのが"つらい権八、小紫"なんですネ~。
で、レッスンの日時は毎週・土曜日の午後1時からとし、手合いは飛香落ちからと決定しました。
こうして始まったレッスンですが、案の定、毎回毎度、思いやられることが続き、私には災難が始まったのです。
・約束の時間に来ない
・2時間の大遅刻は当たり前
・4時間も遅れてくることもある
*結局、レッスンの期間中、一度も約束の時間に現れたことはなかった。
・ただの一度もお詫びの言葉もない
・もちろん、お礼の言葉もない
とにかく人からものを教わるときの態度がすべて、まったくなっていない!!のであります。
こうした災難から逃れる唯一の方法は、この厄介な"クソガキ"を強くするしかありません。本当は、また、常識的にも、人生の先輩として、そして、指導者である"先生"として、クソガキに悪い態度を反省するよう促さなければいけないのでしょうが、その時の私を構成する要素は、いかんせん「将棋・お酒 ・カラオケ・麻雀」。常識は持ち合わせていなかったので、そういう指導は概念になかったのです(どっ ちもどっちだネの声あり)。
何はさておき、いろいろ波瀾含みで始まったクソガキへの家庭教師でしたが、教え方が良かったのか? はたまたクソガキの才能が開花したのか? レッスン開始から半年が経ち、二枚落ちまで指し込まれたクソガキも、私と平手でいい勝負ができるまで上達したのであります。
これにて「免許皆伝」。やっと私は災難から解放されたのでした。
その後、クソガキは18歳で四段に昇段し、棋士の仲間入りをしたのであったとサ。めでたしめでたし。
あれから幾星霜、風の噂に少年が弟子を取ったという便りが届きました。その時の私の最初の感想は、「ア~ァ、かわいそうに。弟子になったのはどこの誰だか知らないけれど、よりによってクソガキを師匠に選ぶなんて......」というものでした。ところが、その弟子がナント、名人にまで上り詰めてしまうのですヨ。私にとっては「お天道様が西から昇って東に沈む」ようなものでした。
棋士が奨励会員の師匠になり、それを「棋士」までに育てあげるのは大変なことです。ましてや名人に まで育てあげるとなると......。それにしてもクソガキ、イヤ元へ、名人の師匠ですから中田八段と呼ばなければいけませんね、失礼しました。それにしても中田八段に立派な弟子を育てるという才能があるとは 、まったく想像できませんでした。中田八段が「名伯楽」だったとはネ~。
ある日、ほろ酔い気分で博多の街を中田八段、ほか数名の棋士と歩いていると、道行く人が「中田先生 !」「オッ、中田先生」「アラ、中田先生」と、アチコチで声を掛けてくるではありませんか。
一同:「へぇー 中田さんてずいぶん知り合いが多いんですね。知り合いだらけじゃないですか」
中田:「いえ、知らない人ばかりです」
一同:「???」 福岡では将棋の名人の師匠ということで、中田八段は有名人というか名士というか、それをこのときに 初めて知りました。
一同:「素晴らしい! 中田さん良かったですねぇ~」
中田:「ちっとも良くありませんヨ。天彦のヤツが余計なこと(名人になったこと)をするもんで、ウッカリ立〇〇ができなくなっちゃって」
一同:目が点になったのは言うまでもありません。
「余計なこと」という表現は、いかにも中田八段らしい"遠慮""奥行かしさ""謙虚さ"で、本当は 弟子の躍進が嬉しいのです。
さて、今回は研修会やその会員の話ではなくなりましたが、中田八段は愛すべき人間だということを覚えておいていただければ嬉しく思います。九州研修会は、楽しい場所なのです。