金子金五郎八段vs花田長太郎八段、実力制初代名人を決めるリーグ戦がついに開幕【今日は何の日?】

1935年(昭和10年)は将棋史上でも画期的な出来事があった。それは、江戸時代から300年以上続いていた終身名人制から実力名人制に移行したことだ。1935年3月26日、当時の日本将棋連盟は「三百年伝統の一世名人(終身名人)の制を廃し、対局の成績で名人の選定をする」、関根金次郎十三世名人は「70歳をもって名人位を退く」旨の声明を発表した。

初代名人大橋宗桂以来、名人は就いたら亡くなるまでその地位にあった。そのため、1921年に小野五平十二世名人が91歳(数え)で死去し、関根名人が名人に襲位したときは54歳(数え)と、指し盛りを過ぎていた。関根名人はそうした苦い経験から、長年の伝統から脱皮するため、実力による短期名人制を決断したのだった。

実力制初代名人の選定方法は、先後2局ずつ指す特別リーグと一般棋戦の成績を加算し、一位と二位による六番勝負(点差が一定以上ある場合は決戦なし)を行うというものだった。第1期名人決定大棋戦は、東京日日新聞と大阪毎日新聞(現在の毎日新聞)が主催した。当時の八段棋士である土居市太郎八段、大崎熊雄八段、金易二郎八段、木見金治郎八段、花田長太郎八段、木村義雄八段、金子金五郎八段の7人が出場し、2年の予定でリーグ戦が行われた。順位戦は戦後に木村義雄名人の発案から創設されたものだ。

特別リーグ戦の開幕局は1935年6月16日に東京・有楽町の「蚕糸会館」で指された▲金子金五郎八段-△花田長太郎八段戦。持ち時間は各13時間で2日かけて行われた。大阪毎日新聞の樋口金信記者は観戦記の書き出しで「あゝその日は来た!!」と歴史的な一戦を綴った。なお、樋口記者の発案で、棋譜の表記が現在も見られる算用数字と漢数字の組み合わせになったとされる。

対局は初手から▲7六歩△3四歩▲2六歩△5四歩▲5六歩と進んだ。△5四歩までの進展は、現代ではゴキゲン中飛車の出だしだが、当時は▲5六歩として5筋の位を突き合う相掛かりが多く指されていた。「5筋の位は天王山」といわれるように、当時は5筋の位を取らせない手法がよく見られたのだ。また、「相掛かりにあらずんば将棋にあらず」という言葉もあった時代でもある。価値観や将棋観が現在と違う。

【第1図は103手目▲1一竜まで】

「序盤の金子」と称される金子が序中盤でリードを奪うが「終盤の花田」が追い込む。図は終盤戦。後手は放っておくと、▲1五桂△2四玉(△1五同歩は▲1四金)▲2五歩からの詰み筋がある。それを防ぎながら、△5七馬▲6五玉△5六馬からの寄せを狙う△3六銀不成が攻防の好手だった。以下▲4九桂△5四歩▲2四歩と激戦が続き、最後は花田が144手で開幕戦を制した。

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