「お荷物になってまで、現役を続けるつもりはない」B1在籍のまま引退して、会長に専念した二上九段

私が五段・24歳の若手棋士だった1974年(昭和49年)7月、公式戦の日程を決める「手合(てあい)係」を務めることになりました。現在は日本将棋連盟・手合課の職員の専任ですが、昔は現役の棋士が1人で担当しました。対局日程で我を通す棋士が多かったので、同じ棋士でなければ務まらない、という事情があったようです。関西にも手合係の棋士はいましたが、主要なことは連盟本部の手合係が決めていました。まったく未経験の若手棋士にとって、神経をかなり使う大変な仕事でした。

その当時の上司が渉外担当理事だった二上達也九段でした。重要な問題で決裁を仰ぐたびに、「慣れない仕事だろうけど、頑張ってくれ」と励ましてくれました。そのおかげで手合係を何とかこなすことができました。私があることで大失敗したときには、人のいない場所で「いちおう厳重注意した、ということにしておくからね」と言いながらも、優しい眼差しを向けてくれました。

1989年(平成元年)5月、長年にわたって連盟の会長に就いていた大山康晴十五世名人が勇退し、専務理事の二上九段が新会長に就任しました。表向きは連盟トップが大山十五世名人から二上九段に禅譲された形でした。二上会長は「大山さんにバックアップしてもらいたい」と記者会見で語りました。しかし実際には、長期政権によって生じたひずみを危惧した中原誠(十六世名人)と米長邦雄(永世棋聖)の働きかけで起きた会長交代劇でした。私は新理事会の発足にともない、理事に初めて就いて出版部を担当しました。

二上会長は「融和」を重んじ、ほかの理事、正会員の棋士、事務局の職員らの声を聞いて政策に取り入れました。私はそんな風通しの良い空気の中で、雑誌『将棋世界』の活性化と書籍『羽生の頭脳』シリーズの刊行、総務担当理事時代には「フリークラス」制度の設立など、3期6年の在任中に存分に働くことができました。二上会長の「仕事は任せる。責任は自分が取る」という姿勢には、いつも勇気づけられたものでした。

定例の理事会(現在は常務会)の夕方からは、千駄ヶ谷の居酒屋で理事同士がざっくばらんに歓談しました。私は、お酒が進むうちに陽気になった二上会長のふとした一言に感じ入ることがありました。

二上九段は約40年前にあるインタビューに答えて、「私は、将棋界のお荷物になってまで現役を続けるつもりはまったくありません」と語りました。そして順位戦でB級1組に在籍していた1990年(平成2年)に58歳で引退しました。現役棋士として十分な力をまだ持っていましたが、会長として将棋界の発展と将棋の普及にもっと力を入れたい、という思いが強かったのでしょう。

二上九段が7期14年にわたって連盟の会長を務めた時期は、連盟の運営がとても安定していました。

おすすめの記事

棋士・棋戦

2024.01.16

里見、2年連続の挑戦を跳ね返す